年末年始にすぐ読めて中国の今が物凄くわかる本の紹介

歴史的「合意」に湧く日韓関係ですが、その背後でより大きな問題になっているのが中国ですよね。

 

ついこないだ日本を抜いて世界二位になったかと思えば、今や名目GDPでは日本の二倍を超える規模になり、しかし色んな意味で「お騒がせ」な存在であることは変わらず、東アジアの局地的な問題ではすまない全世界的に巨大な問題になっている。

 

たまたま今私が書いている本でも、全然中国関係の本じゃないのに、「中国のことについてのある程度の見通し」を持っておかないと書けないな・・・と思う部分があったので、色んな関係本をまとめて読むことになりました。

 

その中で、軽く読める本なのに、読む前と後とで全然違う「中国がわかった感」が感じられた本があったので、今回のブログはそれを紹介しつつ、中国は今後どうなりそうか?、そして日本及び諸外国はどう彼らと関わっていくべきか?について考えてみたいと思っています。

 

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日本は言いたい事全部言った方が韓国と仲良くなれる!

この記事は、テロが当たり前になった時代に、それでも理想を諦めないとしたらどういう「正義」を考えるべきか・・・という連続記事の一環です。(この記事単体でも読めます)

 

今回は、「正義についての古い考え方」が解決の根本的障害となっている日韓問題について、この連載の考え方を敷衍してみます。

 

タイトル見て「そもそもヤツらと仲良くなりたくないわ!」と思ったネット右翼さん、あなたのその気持ちも全部面と向かってもっとぶつけていくようにしたほうがむしろ良くなるはずだという話です(現状すでにそうしているともいえますが、そのことによって日韓関係は混迷を極めているようで実は本当の相互理解へ向けて動いていってるんだという話だと捉えても良いかもしれません)。

 

韓国人がよく、「日本人はココロの底の本音を隠して上辺だけニコニコしてるから信用できない」と言うたぐいの話をします。いやいやあんたらはむしろ全部出しすぎやろ!と私たちは思うわけですが、そういうレベルのすれ違いというのも、案外馬鹿にはできないところもあるように思います。

 

漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の有名なセリフに、主人公のジョナサンの大事なオモチャを愛犬ダニーがくわえて離さなくなっちゃった時に、彼の父ジョージ一世が、「それは無理やり引き離そうとするからだ」ということで、以下のように教えるシーンがあります。

逆に考えるんだ。「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ。

 

 この問題に関して言うと、こうです。

ジョジョ、逆に考えるんだ、嫌われちゃってもいいさ・・・と考えるんだ

 

これは、やけくその、もうあいつらなんか知らないもんね!けっ!というような話ではありません。

 

むしろ、テロが常態となっていく世界のあたらしい不安定さの中に、「今の時代に必要な本当の相互理解ってなんだ?」という真摯な問いの結果として出てくるソリューションなのです。

 

今回はそういう話をします。

 

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「テロリストとも話せば分かる」は本当に実現できるか?

「テロリストとだって話せば分かる、酒を酌み交わせばわかる」的な理想主義について、まあ無理なもんは無理だという現実は認めた上で、理想を諦めないためには何ができるだろうか?ということを考える記事を書きます。

 

結論から先に言うと、

 

酒を酌み交わせば理解しあえるぜ!というのは、自分以外の誰の人生についても、たった一時間酒飲みながら話せる程度の事情以外は俺は勘案しないよと言ってるようなもの

 

なので、

 

本当に話せば分かるを目指すなら、世界の見方全体を変えようとする必要が出てくるんだ

 

・・・ということになろうかと思います。
 

では以下本文です。

 

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テロが当たり前の時代の『あたらしい正義』について。

フランスのテロ事件は、今まで「その話は公的には黙殺することで現代社会を成り立たせていた」問題をすべて白日の下に晒しつつあるように思います。

 

ベイルートの死者は無視なのに、パリで死者が出たら全世界が大騒ぎするってどうなんだ?という話は、事件以前だってずっと「リアルに存在する大問題」でしたが、事件前にこんな話を堂々とフェイスブックで言い出したら「はいはい中二病」扱いで黙殺されていたようなことです。

 

それが今や、全世界的にホットな話題になり、”キャッチーでファッショナブルな範囲で”堂々と扱える内容になった。(余談ですが私は少年時代”にザ・イエローモンキー”というバンドが好きで、こういう問題を扱った彼らの有名な歌詞をネットで酷評されまくっていたのを見ていたので感慨深いものがあります)

 

 

また、「テロをする人間にはテロをする人間の正義(あるいは少なくとも”切実な事情”)がある」という話と、「テロリストをちょっとでも擁護することはそれ自体許されないことだ。たとえどんな事情があってもだ!」という立場には、どちらにもかなりの真実性が含まれているように思います。

 

正義が一元的なものではなくなり、いろんな正義があり、それぞれが必死にその正当性を主張している。その「主張」は、言葉によるものに収まらなくなり、デモならいいけどテロにすらなるようになっている。

 

こんな時代に、「正義」という言葉を私達はどう考えたらいいのでしょうか?

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三色旗でテロ追悼することは中東に対して失礼か?

お久しぶりの投稿です。次の本の原稿が完成するまでソーシャルメディア絶ち!とかやってるうちに半年もたってしまいましたが、一応原稿できたのでネット活動再開します。(出版の続報についてはまたいずれお知らせします)

 

再開一回目の話題は、パリでのテロについてトリコロール(フランス国旗の三色旗)を掲げて弔意を表すことは、中東の人に対して失礼なのではないかという議論について。

 

今日久々にフェイスブックに入ったら、いろんな友人がこういう方向の意見を述べていました。

 

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大阪都構想の投票結果について『分析』より大事なこと。

大阪都構想住民投票は、物凄い僅差で否決されましたね。

 

個人的には結構ショックを受けて、数日ネットで何かアップするような気持ちにはなれなかったんですが、その後多くの人の分析や論評記事を拝読して、その分析自体には「ナルホド」と思うと同時に、あまりにも「この混乱した大阪の状況自体をどう好転させられるのか?」についての感覚があまり湧いてこない状況は良くないんじゃないかという気持ちを持つようになりました。

 

コンサル会社では、「分析としては面白いけど、どう打ち手に繋がるわけ?」というような手厳しい(笑)、でも本質的な指摘が上司からよくされます。むしろ混乱が増して前に進めなくなるような分析なら、いくら正しくても無い方がいいんじゃないかというような文化です。

 

まあ、そういうのはマジなアカデミック的には不誠実な態度ということになるのかもしれませんが、しかし、ただ分断をさらに煽るだけになる方向性しか示されないのは、誰のためにもなってないのではないかというように思いました。

 

目次は以下のとおりです。

1・データの見かけと「そこにある本質」とのギャップを考えてみよう

2・粗い分析で対立を煽るより「実感」からのポジティブな話を

3・「細雪的調和」のタイミングを両派で睨みながら押し出して行こう

4・みんながええようにいったらええなあ

 

 

1・データの見かけと「そこにある本質」とのギャップを考えてみよう

 まず、少し脇道にそれますが、考える題材として非常に重要なことだと思うので、境治氏というコピーライターの方が書かれたネットフリックスというアメリカ企業に関する記事の話をします。

 

ネットフリックスはアメリカのVOD事業(ネットで注文するとネット配信でその場で映画とかが見れる)の巨大ベンチャーなんですが、彼らはユーザーの試聴履歴を解析して「あんたこういうの見たいんじゃないの?」というオススメを出すことで、既にユーザーの注文のの7〜8割がオススメから来ているほどらしいんですが、なんとそれだけの精度のオススメをデータから出しているのに、ユーザーの「属性情報」は一切取ってないそうです。

 

つまり、男性か女性か、何歳ぐらいか、どこに住んでいるのか・・・というような属性情報を一切取らずに、その”個人”の試聴履歴のビッグデータ解析からだけのオススメによって圧倒的な精度を実現しているわけです。

 

こりゃあ、なんというか凄い時代になったなあ・・・と、こういう話を聞くたびに私は思います。

 

つまり、70代の日本人女性でずっと日本に住んでいても長年通訳の仕事をしている人であるために勉強のためにアメリカの映画しか見ない(しかも超グロいゾンビ映画が大好物な)人もいれば、20代男性でニューヨークに住んでいるアメリカ人でも日本の超絶萌え系アニメを日本語で見ることにしか興味ない人もいるわけで、結局属性じゃなくて個人の履歴だけから「純粋に機械的」に検出されたオススメの方がフィットするという時代になったのだということです。

 

これは間接的に言うと、今回の都構想の結果について、「男女比・年代・どこに住んでいるのか」の見かけの数字だけに引っ張られると結構危ういんじゃないかということでもあります。

 

と、言うのも、今回の結果は、「属性情報」で切っていくと、どの視点で見てもだいたい「丸めてしまえば半々」ぐらいの差でしかないからです。

 

傾向として、キタに住んでる方が賛成派が多い、70代以上に反対派が多い・・・という程度のことは言えますが、しかし70代でも「比較的反対が多い」という程度です。

 

で、より重大なのは、「それほど真剣に確立した立場」をみんなが持っているわけではなさそうだということでもあります。要するに、反対を投じた人も、人生賭けた確固とした持論として反対というより、なんかちょっとした雰囲気の変化で・・・それこそ「地下鉄の敬老パスは絶対維持します!」って最後にもし橋下市長が思いつきで叫んでいたとして、それがニュース映像でちょっと流れてたりしたら「ほんなら賛成でもええか」になってる可能性があるという程度のことである可能性があります。

 

私はブログでも著書でもあんまり「データ」を提示しない人間で、その辺今の流行とは随分違うモードで書いてるんですが、それはコンサル会社的体験から、「結論ありきでデータって適当に作れちゃうんだよなー」という諦観が染み付いてしまってるからでもあります。で、賛成側も反対側も必死で「自分に都合の良いデータ」を突きつけ合っていても、憎悪がお互いに募るだけで前向きな話にならないということについて結構真剣な危惧を抱いています。

 

もちろん、「考える素材を提供するブログ記事」として大事だというのは絶対的にありますし、学問の現場や経営の意図決定の現場において物凄くクローズドにプロフェッショナルを集めて密度を高めた人間関係の中でシッカリデータと向き合うチームがいる場合は別なんですが、ネットを介した分散的コミュニケーションのようなフワッとした場においては、常に「データの見かけ」の裏に「現実」があって、それはどの程度このデータのメッセージと対応しているのか?については、一歩引いた目線で考えた方がいいと私は考えています。

 

(余談ですが、「本当に凄いビッグデータ分析」的なものは、むしろ結構「ぼんやりした人間の直感」的なものに近づきつつあり、「属性情報的な切り口から切っていく人為的な分析」の問題点が徐々にホリスティックに克服されるようになってる時代だなあという感触を私は持っています。)

 

 

2・粗い分析で対立を煽るより「実感」からのポジティブな話を 

というわけで、粗い分析で対立を煽るより、あえて「実感」からのポジティブな話をしよう・・・というコンセプトで今回の投票結果をまとめると、

 

今回の問題は、そもそも票数的にほぼ互角だった上に、

「反対派」の中にも今のままでいいとは思ってないが、しかし橋下・維新の今回の構想には反対するという人が多くいる

 

 ことから、この問題については、

「何らかの改革が必要ということはほぼ全員が考えている。しかし、誰がどうやってやるか?については色んな意見がある」

 

 という状況なんだという風に理解するのが良いのだろうと思います。アカデミックな専門家以外が今後を考えるにあたっては、これ以上「分割」し始めてもあんまり良いことないんじゃないかと。

 

また、今回は「反対派側」も、推進側に対抗するために、

・「そういう改革は都構想じゃなくてもできる」

・本来我々はもっとラディカルな道州制に向かうべきで、都構想なんて中途半端である

 

といったような空手形を切りまくっており、これがちゃんと回収される状況になるのならば、橋下維新的な存在が「やりすぎ」てしまう部分を柔らかく受け止めつつ、「本当に必要な改革」は実現できる・・・という情勢に持っていける可能性があります。

 

橋下氏が「敗戦会見」で、嫌われても論点を明確化するようなリーダーはどうしても必要だったが、しかしそういう存在はワンポイントリリーフであるべきだ、これからは敵を作らないタイプのリーダーが前に進めるべき時だ、というようなことを言っていて私はかなり感動してしまいました。

 

橋下氏が嫌いな人は、橋下氏やその周囲にいる人間を徹底的にゲスなエゴの塊のように理解する傾向がありますが、今の日本において彼のような立場にある人が陥りがちな難しい状況を考えると、彼の上記の言葉だけは、一度虚心で受け止めて次に活かして欲しいと思っています。

 

何もせずにただ衰退するのが嫌だという人が多くいる状況の中で、なんとか改革を形にしたいと願う人間は、多少なりとも荒っぽくならざるを得ない(特に日本のような現状維持の惰性が強力な社会においては)。そしてその時に「橋下氏のゲスなエゴ」のように見えるものは、実は「あなたが生きている世界の見せかけの安定の裏に弾き出された無理」が噴出しているだけでもあるのです。

 

彼らとは違う良識的なやり方で、しかしちゃんと前向きな変革を実現していく情勢を作れた時に初めて、あなたは橋下氏がゲスだと嘲笑う資格を得ると言えます(でも多分その時期までなったら彼への適切な敬意も湧いてくると思いますが)。

 

「絶対反対」になってた70代のご老人だって、「大阪がこのまま沈むだけやったらアカンというのはワシも同意しとる!」ぐらいの浪花節回路にちゃんと接続できれば前向きになれる可能性だってあるわけですし、橋下氏が起点となって明確化した論点を、ちゃんと前向きに取り入れることができるかどうかが、「勝利者」に今後厳しく問われる状況になっていくでしょう。

 

で、今後どういう「ゴール」が考えられるのかについて、随分前から私は「細雪的ゴール」が実現したらいいなあと思っています。細雪?まあ詳細は最後まで読んでいただければと。

 

その前にちょっとだけいつもやってる自己紹介を、色んな人にシツコイと言われながらもするんですが、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

 

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

で、その遍歴的に結論的に考えるようになった「あるべきゴール」は、結局この「対立」は果てしなく続いて行くしかないが、続くに従って「環境条件」が変わってくるので、幕末期に水と油のような性質の違いを持っていた薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んだように、「適切な新しい連携」が生まれてくる情勢になるだろう(そこまで行くには対立し続けるしか無いが、いざという時の連携についてはみんなが考えていけるようにしよう)ということを考えています。

 

詳しくは、投票前に書いた記事↓をお読み頂きたいのですが、

keizokuramoto.hatenablog.com

 

アメリカ一極支配が緩んでくるここ何年かの世界の中で、昔なら「市場原理主義」vs「アンチ市場主義」は「お互い物凄く極端なこと」を言わざるを得ない状況だったのが、徐々に「本当の経済合理性」を両派の合意で実現していける情勢に近づいて来ています。

 

「市場側」が言うことは、5年前だともっと極端で、日本ならではの優秀性の確保伸長といった視点が全くない「グローバリズムの威を借るキツネ」みたいな言説になりがちでしたが、最近は世界的な情勢変化もあり、また「派手な旗を立てなきゃいけない商売事情がある”論客”サン」たちとは違う「多くの普通の働き手」の間に「良識的な共有感」が出てきているので、逆に物凄く「アンチ市場」なことを言う論客の方が徐々に歴史的使命を終えつつある情勢になってきている。

 

そういう「全体的な歴史の流れ」を考えると、過去10年「どちらかの極論」に走れずにグダグダやってきた我が国ならではの、

てめーら、日本は果てしなく何も決められずに沈んでいく終わった国だと思ってただろ!?

しかし、これぞ我ら一子相伝の深謀遠慮の『策』なのだッ!

これから「死中に活を求める」という「知恵を超えた智慧の力」を見せてやるぜッ!

 

的な連携を生み出していける可能性があるということです。

 

つまり、韓国やシンガポールやアメリカのような、「狭義のグローバリズムに直接フィットする存在だけを伸ばして他をなぎ倒してしまった国」にはできないような、「最先端性と底辺の安定性を両立する良識的な市場主義」の実現においてトップランナーどころか世界の希望になれる可能性がある。

 

インテリのエリートが全権を握ってザクザク切り回せる国では頭が良すぎて決して実現できなかったレベルでの、社会の末端まで本能的に動員できる最適連携の実現が、目の前まで来ているわけですよ。過去10年どっちつかずだったからこそ踏み込める領域がある。

 

「人知」的な属性分析が、ホリスティックなビッグデータ分析に飲み込まれていくような時代の中で、日本人が捨てずにグズグズしていた優柔不断さの奥にある力が、「割り切りが良すぎてしまったことによって取り返しが付かなくなった欧米文明」を根底から補完する可能性を生み出すわけです。

 

で、そのために必要なゴールが、歴史的なタイミングとして徐々に近づいている「細雪的な調和」だなあと思っているわけです。 

 

 

3・「細雪的調和」のタイミングを両派で睨みながら押し出して行こう

 

谷崎潤一郎の『細雪』という作品をご存知でしょうか?

 

インテリで日本文学好きのガイジンには、「Makioka Sisters(細雪の英題)」がサイコー!って言ってる人を結構見かけますし、あの「日本文学はほとんど読まずに生きて来た」と公言する村上春樹氏も「何回も繰り返し読んでしまった」とどこかで書いていました。

 

(私は文学のプロでもないのに知ったようなことを語ってしまいますが)例えば南北戦争後の南部アメリカとか、ラテンアメリカの奥地とか、滅び行くアジアの王朝とか、日本のメチャクチャ田舎の村とか、そういう「現代文明によって消え去っていく因習の世界」の中にある人たちの「生き様」をそのまま克明に描く美しさ、というのは、1つの「純文学」の大きなテーマの1つらしいんですね。

 

細雪は、太平洋戦争開戦前後ぐらいの時期の、「大正時代は大阪船場で物凄く名の知れた商家」だった家に育った四姉妹が、その「船場の商家」の文化が滅び行く時代の中で、三女と四女の結婚相手を探しながらアレコレする・・・というあらすじです。

 

正直、原作は「筋書きらしい筋書きもないのにあまりに長い」ので、私は上巻の途中で挫折してしまったんですが、吉永小百合さんが出ている映画版が非常に有名で、これだと忙しい現代人でも楽しめる良作だと思います。DVDも出てます

 

で、『細雪』はどんな話かというと、ようするに四姉妹の長女さんは、「古い考え方」に固執していて、「マキオカの人間ならこうでないとダメ」というのが強くあるんだけど、三女や、特に現代的な四女はそれが煙たくて仕方ない・・・というような人間模様が続くわけです。次女さんはなんとなく中立的。

 

三女・四女の結婚相手を探してるんだけど、「マキオカという家の、失われた過去の名声へのプライド」が邪魔をして色々とうまく条件が合わないまま、しかしお金はまあまああるから美しい着物に観劇に京都見物に・・・という平安貴族絵巻的な生活をしていたりするわけですね。

 

で、話として非常にツイストが効いてるのは、長女さんも次女さんも、「婿養子」を貰ってるんですよ。そしてどちらもサラリーマン。

 

実際には既に「マキオカの商店」は閉じてしまっていて、本家の長女さんも分家の次女さんも、そのサラリーマンの夫の稼ぎで暮らしてるんだけど、でも「マキオカの人間ならこうだ」というプライドは維持している。

 

で、こう書くと、ほんと「因習に囚われた嫌な人」って感じなんですが、でも婿養子に入ってる長女と次女の旦那さんも、それを「物凄くイヤ」とは思ってないし、昔からのマキオカへの奉公人だった家の人たちも、そこにそういう「プライド」を持って生きていてくれる人がいることで心の安定を得ている部分もある。

 

同時に、放っておくとどんどん「下流への競争」になりがちな、着物文化などの伝統工芸業界を支えているのが、そういう「旧家のプライドを引き受けて生きている人」であったりするという構図なんですよね。

 

つまり、「単に時代遅れなイヤな女を描く一面的な作品」ではないからこそ名作なんで、旧家の中に生きるありようが持っている「功罪両面をちゃんと描いているからこその滅びの美学」というわけです。

 

で、ここからがちょっとネタバレ注意なんですが、映画は既に3回ぐらい見ていて、毎回私が「いいなあ」と思うのは、最後の方で、長女さんの旦那さん(銀行員)が、東京へ転勤になるんですよ。

 

東京の丸の内支店長になるって言うんで、「サラリーマン文化」を共有してる次女の旦那さんは「うわー栄転ですやん!良かったなあ兄さん」みたいな感じなんですが、それに「マキオカシスターズ」はカンカンに怒ってしまうんですよね。

・「私は京都より東へは行ったことがないのが自慢やったのに」

・「マキオカの本家の人間が大阪におらんでどないすんねんな」

・「あんた、断るわけにはいかしまへんのんか?」

という感じで特に長女さんがずっと反対して、 で、婿養子だというのもあるけどそれなりに長女さんを尊重して生きている旦那さんはほとほと困り果ててしまうんですけど。

 

で、長い長い話のクライマックスが、結局長女さんが東京に行くことを受け容れる・・・という「え?それだけ?」のことなんですが、そのシーンが凄く「良い」んですよ。

 

なんか見ていて「じいいん」と来るものがある。ぜひ2時間ぐらいの映画(レンタルもあるはず)なんで味わってみてください。欧米にキリストの「許し」の哲学があるとすれば、東アジアにはこの「メンツを立て合う解決の知恵」があるぞ!というような・・・まあ大げさに言えばですが。

 

旦那さんも、「よう決めてくれはった!ありがとう!」って拝む感じだし、長女さんも「今まで苦労かけましたなあ」的な感じで頭を下げている。

 

あのシーンには「滅び行く世界側に確かにあった良識担保機能」に対して「市場側が敬意を表する」儀式的な価値が凄く伝わってくるんですよね。

 

で、両派の思いを存分に入れ込みながら、「これから忙しなるでぇ!」的な希望が満ちてくる、そういう「場」が生まれてきている。

 

もし長女さんが意地を張らずに最初からホイホイ転勤について行っていたら「守れなかった価値」があるんですよね。でも突っ張って突っ張って、でも色々な状況の変化があって、そしてあるタイミングで「時が満ちるように受け容れる」からこそ、お互いに「本質的な価値の共有」が生まれる形式が生まれている。

 

4・みんながええようにいったらええなあ

 

ここまでのメッセージを一枚絵にまとめると、以下のようになります(クリックで拡大します)。

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そういう「細雪的な調和」のタイミングは、アメリカ一極支配が一歩ずつ後退する今後の世界の中で、一日進めば確実に一歩近づいてくる「状況」ですからね。

 

「見かけ上の対立」を繰り返しながら、我々は徐々に人類代表としてその「調和点」を目指して動いていくべき時なわけです。

 

最後のシーンで、長女さんが遠くを見るような目で

 

「みんながええようにいったら、ええなあ」

 

って慨嘆するシーンが私は凄い好きです。

 

今後も、日本ではまだ色々な「対立」が激化していくでしょう。「改革」を全拒否にすればするほど、日本が完全に閉じた孤絶的社会になることは不可能な時代的事情ゆえに「改革派」はより過激かつ無理やりな行動をせざるを得なくなってくる。

 

しかし、その「総体的な状況」を日本のインテリの集合体が理解しながら、その「細雪的調和点」を横睨みにしながら「しかし、あえてッ!あえて今は断固として反対するのだ!」という心の痛みから逃げずにいる時には。

 

橋下氏が残した「功」も「罪」も、均等に適切な評価を我々は与えることができるようになるでしょう。

 

橋下氏の「功」に注目したいタイプのあなたも彼の持つ「罪」の方について、そして逆に橋下氏の「罪」しか見えないあなたは、ぜひ彼の「功」の部分を自分の世界観の中に位置づけられるように持っていっていただきたい。

 

その先に、「漫画スラムダンクのラストシーンにおけるルカワと花道のパス」のようなタイミングは、必ずやってくるでしょう。

 

紙幅の問題で詳しく触れられませんが、その「新しい調和点」に導くことから、日本における「右傾化」の問題や、東アジアの平和問題、そして世界の「アメリカvsイスラム国的対立」などの問題について、「20世紀型の紋切り型の罵り合い」ではないかたちでの、「逆側の人間にも敬意を払える解決のありよう」が見えてくるのです。

 

そういうゴールについては、私の近著↓

amzn.to

をお読みいただければと思います。

 

では最後に、あなたもネットでの論戦にお疲れのあなたもふと冷静になって、関西の旧家の怖いお姉さんになったような気持ちで、遠い目をして、ご一緒に以下のようにご唱和いただければと思います。

 

みんながええようにいったら、ええなあ・・・

 

 

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。また、ご要望が多かったフェイスブックも始めたので、友達申請を頂ければ(明らかなスパム以外受け入れますので友達になりましょう)ツイッターと同じフィードを受け取っていただけます。

 

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント
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こいつの言ってること面白いぞ?と思ったあなたは、こちらの記事から私の今までの活動に触れていっていただければと思います。

(当記事の絵や図は、出典を明記する限りにおいて利用自由です。議論のネタにしていただければと思います)

 

大阪人の”ダメ人間化スパイラル脱却”の為に都構想実現を!

大阪都構想住民投票が迫り、推進派・反対派の宣伝合戦がタケナワです。

 

それについて、「賛成派・反対派」の両方のカルチャーの事情を身を持って知ってる私なりに議論に役立つような視点が提供できそうなので書きます。

 

というのも、都構想を推進しているグループには、私が昔いたマッキンゼーというコンサルティング会社の人間がブレーンとして多く関わっていて、元直接の上司や、先輩などからたまに話を聞くことが過去にありました。今も私は経営コンサルタントだから彼らがやりたいことは内容としてわかります。

 

一方で、過去に私の本を出してくれたある編集者の人は、「都構想絶対反対派」の有名人のほとんど全員と次々と仕事をする人で、その結果私が出している本の読者の人をツイッターなどで見かけると、かなりの比率で「大阪都構想絶対反対」という人が多いです。

 

だから私は「2つの全く違うカルチャー」の交差点にいると言っていい。

 

そもそも、私はそのマッキンゼーに入ってから、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきた人間なんですね。

 

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

だから、「反対派」側のカルチャーの人の言うことは凄いわかるし、それこそ人生色々かけて「反対派のカルチャーの人たち」の言うことを理解し、活かそうとしてきた自負があるわけです。

 

ちなみに私は神戸出身で今は関西に住んでませんが、大阪は父親及び多くの親族の故郷で、マッキンゼーの後転職した船井総研という会社時代の職場であり、その当時の取引先が多くあり、当時交際していた女性の家に転がり込んで住んでいた街であり、さらに上記の「訪問販売」時代にはありとあらゆる大阪の下町の路地の奥まで入り込んで訪問販売してたぐらいの関わりはあります。

 

で、そういう人間なりに意見を述べたいんですが、全体としては

反対派の意見も理解できるところはあるが、ここは前進しといたほうがええで!

と言う話をしたいと思います。

 

目次は以下の通り。 

1・反対派の議論は正直あまり説得力がないと思う。

2・”安定性維持”のための反対派の懸念はわかるが、動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。

3・大阪人特有の「ダメ人間化スパイラル」脱却を!

 

 

1・反対派の議論は正直あまり説得力がないと思う。

例えば反対派のボス的存在?の京大大学院教授の藤井聡氏が書いた「7つの事実」というキャンペーンがあります。

 

これは反対派の方々の中ではかなりの頻度で引用される内容で、字面を読むとちょっと説得力ありそうなんですが、しかしよく考えてみるとかなりイチャモン的な内容なんですよね。

 

大きな改革をとりあえず一歩めから始めようという話に対して、「完全な理想像」をぶつけて論破したつもりになってる感じというかね。

 

「現状のシステム」を基準に「改革案」にケチをつけはじめたらいくらでもできるんですが、しかし「とりあえずこれから始めて、問題があるんならそれも全部取り入れて行ったらええやん」という発想でいかないと結局何もしないまま緩やかな衰退だけが続くことになるので。

 

 例えば今回の投票が、「都構想」自体の実現の投票じゃないというのはそうなんですが、ちゃんと動き出したら、だんだん広範囲に広げていけばいいし、「東京の特別区にありがちな問題を避けられる”良い特別区”」を自前に考えて制定していけばいいし、名前だって都に変えたらいいだけの話なんでね。

 

他にも一個一個についてコメントしてもいいんですが、箕面市の倉田哲郎市長の書かれたこの記事が凄くまとまってるし、説得力があるように思いましたのでそちらをご参照いただければと思います。(特に4と5についての反論が、都構想推進者が持っている問題意識をちゃんと説明している良い内容だと思います)

 

2・”安定性維持”のための反対派の懸念はわかるが、動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。

で、「反対派」に対して私が一応理解できるのは、「反対派の言ってる内容」ではなくて、「橋下氏的なもの」がこのまま前進していった時に社会の安定性が保てるのかどうか?っていう部分なんですよね。言ってる「内容」はともかくその「危機感の表出」という意味では理解できる。

 

実際、橋下氏が府政・市政を担うようになってから、「改革」を行ったいくつかの領域で直撃的な影響を受けた人の中には、ほとんど「憎悪」というレベルでの反対を唱えている人がいますし、そういう人たちの反論のうちの”かなりの部分の”意見は傾聴に価すると思います。

 

そりゃ過去の改革の中には「失敗」も結構あっただろうと思います。

 

要するに「全体的なガバナンスを利かそうとする動き」が「現場的な安定性を損なってしまう作用」というジレンマは常にあるからですね。

 

まさに「そういう問題意識」ゆえに、冒頭に書いたような私の「色んな人になんでそんなアホなことを?と言われ続けた模索」はあったわけなので、その問題意識は物凄くわかる。

 

で、この問題について色々と探求してきた私から、「反対派側の懸念」を共有しているあなたにお伝えしたいことは、

 

むしろまず一歩動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。

 

ってことです。

 

逆に言うと、どっかで前に進み始めないと永遠に”改革派”は余計に過激にならざるを得ない構造があるんですよ。←これ、凄い凄い大事なことね。

 

例えば反対派の論調の中に、「それは都構想でなくてもできる」という文言が多くあって、その辺が例えば「都構想による財政削減効果の算出」の時に全然違う数字になることに繋がって来るんですが。

 

で、まあ「都構想でなくてもできる」のは理屈としてはそうなんですが、それを誰がやるんだ?っていう話があるんですよね。

 

とりあえず維新がある程度の支持率を得ていて、まとまった方向性が示されている時にやらないと、絶対誰もできないですからね。

 

だから、「橋下氏の改革が荒っぽいものにならざるを得なかった」責任は、「反対派」の一部にもあるっていう発想が必要なんですよ。なぜなら、「改革のエネルギー」は「橋下氏周辺のエゴ」ではなくて「普段の”見せかけの安定”の裏側で本当は存在している無理」が人の形を取って噴出しているだけという性質があるからです。

 

セクショナリズムが横行して、全員が自分の身の回りのことだけを見ていて、その「身の回り」についたら凄い責任感もあるけど全体で見ると連携が全然なくて、その結果として末端にヒドイ不幸がシワ寄せされる・・・っていうのが「日本人のよくある過ち」ですよね。(先の大戦の反省を本当にやるならまさにその問題をどうするかを考えないといけません)

 

その「大きな連携を取ろうとする動き」に対して誰も協力しないでいると、「連携を取ろうとする動き」は、荒っぽくなっても前進せざるを得なくなる。

 

だから逆に、「やるぞ」という方向で固まれば、「じゃあどうやるか」の中に「反対派の懸念」も入れ込める情勢になるんですよね。

 

で、「構図」的には実は似たような問題を抱えている大塚家具のお家騒動問題について書いた記事↓

keizokuramoto.hatenablog.com

でも書きましたが、これは例えば「5年前」ならできなかったことなんですよ。

 

5年前なら、まだ世界全体の情勢的に、「アメリカの一極支配」が強くあったから、「市場原理主義者」的な経済評論家とかコンサルタントは、「現場的なもの」を抑圧しすぎる方向に暴走しがちだった。

 

その時期には、やはり「アンチ市場主義」的なものの中の原理主義的な人たちにも意味があった。

 

が、世界情勢が「アメリカvsイスラム国」的な多極化時代に入って、「どっちが完全に正しいわけでもない世界の空気」が強まってきている中で、今の日本は「その次の理想」を描ける理想的ポジションにいるんですよ。

 

その結果、例えば最近デーヴィッド・アトキンソン氏という元ゴールドマン・サックスのイギリス人金融マンが、小西美術工藝社という日本の伝統工芸の会社を再生させた話などがフィーチャーされるようになってきている。

 

アトキンソン氏は、小西美術工藝社の社長になってから、文化財の質に関わらないコストを徹底してカットした上で、果てしなく年功序列で上がっていく職人の給料を高齢層の部分である程度抑制した分、若手職人を全員正社員として登用、技術の継承にも力を入れ、また国内の文化財の修復には中国産でなく日本産の漆を使うべきだという運動を起こして実現させたり・・・と、八面六臂の大活躍をされています。

 

配慮しながら「全体最適」的なガバナンスを通すことで、むしろ「現場的な強み」がちゃんと活かせる構造を生み出すような結びつきが生まれてきている。

 

「ゴーサイン」がちゃんと出るまでは、お互い絶対譲れないから、改革派も荒っぽくやってしまう部分が出ていたんですよ。

 

でもちゃんと「前に進むぞ」と決めることで、「あたらしい着地点」へと”より丁寧に動いていく”ことが可能になるんですね。

 

大事なことやからもう一回言うとくでぇ↓

ちゃんと「前に進むぞ」と決めることで、「あたらしい着地点」へと”より丁寧に動いていく”ことが可能になる

 

で、一歩ずつ「あたらしい均衡点」が歴史的に近づいてきてる結果、5年前は「市場原理主義的なこと言う人」の方がちょっとイタイ感じだったんですが、最近は「アンチ市場」なことを原理主義的に言う人がだんだん「イタイ人」になって来ているところはあると思います。

 

金持ち老人の道楽としての「清貧思想の押し付け」とかね。あるいは「じゃあ物凄い巨大な土建国家にするってこと?」っていうようなビジョンとか。

 

アンチ市場主義者の”懸念自体”は正当なものなんですが、だからといってその先にある「未来」に希望はないですからね。だから「前に進む決断」が公的になされるまでは、永遠に「改革派が過激にならざるを得ない構造」があるんですよ。

 

だからこそ、とりあえず「前に進むこと」だけは決めた方がいいんですよね。

 

こういう全体的な世界の流れの中での「今後の日本が取るべきユニークな方向性」という話については、ぜひ私の近著↓

amzn.to

 をお読みいただければと思います。

 

 

3・大阪人特有の「ダメ人間化スパイラル」脱却を!

で、もうちょっと大きな話をするとですね。

 

私の母親は、都構想賛成派らしいです(ただし神戸市民なので投票権はない)。その理由は、

だって、”都”が東京だけのモンやなんてずるいやん!

 

 だそうで(笑)

 

そんな理由かよ!って感じですけど、でもこれ結構大事なことやと思います。

 

と、言うのも前述したように私は大阪に住んで大阪の会社で働いて大阪の色んな会社と仕事をして、さらには大阪の下町の路地の奥の奥まで訪問販売で中に入ってって色んな人と直に接してきた経験から言うんですが、今の大阪人の負け犬根性というか「ダメ人間化スパイラル」はほんと良くない感じなんですよ。

 

でも、昔はそうじゃなかったはずなんですよね。今の「大阪イメージ」と、本来の「大阪イメージ」は随分違ってきてしまっている。

 

「誇りある実質主義の商都大阪人」として頑張ろうぜ!じゃなくて、どんどん「競い合ってダメ人間ぶることで自分たち自身をも傷つける競争」みたいになってしまってるんですよ。

 

ブランド品を買った時に、大阪の人間は「いかに安く買ったかを自慢しあう」という話がありますが、そんな感じで大阪には特有の「どれだけ正直に生きてるか競争」をする巨大な磁場が働いてるんですよね。

 

で、それは「嘘くさい虚飾を廃する商都大阪の誇り」みたいなものだったはずで、良い方向に回り始めたら「次はこんなんやったろ!どや!東京には敗けへんでぇ!」的な好循環になるはずのものなんですよ。

 

でもね、これが今は、「真剣に働いてなんかやろうとするより、公務員にでもなってオイシイ位置占めといたら何もせんでもこんだけ貰えんねんでぇ!なんか頑張ってるアイツとかアホちゃうか?」的な方向での大競争みたいな雰囲気になってるんですよね。

 

以下の絵みたいな感じで(クリックで拡大します)、この「ダメ人間スパイラル」を「商都大阪のプライドスパイラル」に転換しないと、日本第二の都市が国の補助なしでは財政的にやっていけないというような状況は絶対いつまでも続けられないですからね。

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 「既得権益をぶっ壊せ」的な定形表現は私はあまり好きじゃないんですが、しかし大阪に関して言うと、今は「マットウな商売」の方向じゃなくて「いかにウマい汁が吸えるかレース」的な方向に向いてるエネルギーが強すぎるので、どこかでショック療法が必要だと思います。

 

都構想に否定的な人はいわゆる「インテリで良識的」な人だと思うんですが、世の中にはそういう「インテリで良識的」な人の想像もできないほど自分のことしか考えてない人がいますからね。そういうモラルハザードを超える方向での回転は、どっかで起こしていかないといけないんですよ。そのことは、「維新の都構想」は反対する・・・というあなたも、「あなたのバージョンの理想」を考えるにあたって、ぜひ一度忘れないでいて欲しい点なんですよね。

 

・最後に

大阪は魅力ある街です。

 

このゴールデンウィークに妻と大阪旅行に行ったんですが、大阪の街(特にミナミ)に降り立つと、自分の中の関西弁回路がやたら活性化して、お好み焼き屋さんに並んでる時に隣のオッサンと雑談したり、会計してる時に店員のお姉さんと雑談したり・・・って自然になってしまうぐらいの「場の力」があります。

 

あべのハルカス内のホテルに泊まったんですが、日本一の巨大ビルからちょっと歩いたら釜ヶ崎のドヤ街や「ザ・大阪庶民の街」である新世界という状況が凄く新鮮でした。

 

実際、「新世界」なんて昔はちょっと私のような神戸出身のオシャレ関西人には訪れるのが躊躇されるような場所でしたけど、今はある程度観光地化が進んで(でも同時に昭和情緒的な町並みも消えずに残っているバランスがあって)、「ディズニーランドにいる間はオッサンでもミッキーの耳付けて歩ける」的な意味で、「新世界にいる時はみんなで昭和情緒にひたれる」的なテーマパーク的魅力が溢れていました。

 

こういう時に「ドヤ街的な世界」vs「ハルカス的なもの」的な”対立構図”に取ってしまうのは、そもそも大阪本来のもんではないはずです。

 

 むしろ、「東京ではしらへんけど、大阪じゃあそんなもんは通りまへんでぇ」的に「市場原理主義」の中から「嘘クサイ部分」だけを取り除いて、末端までシームレスに行き届かせられる力が大阪にはあると私は考えています。

 

新世界の商店街のオッサンたちも、やはりそうやって「大きな資本の流れ」の近傍にいることで、多くの人間が物好きにも「ザ・大阪のオッサン」を見たくて集まって来てくれることで「プライドを持って演じてる」良循環があるんですよね。

 

打ち捨てられたスラム一歩手前になったら「ダメ人間化競争」をやって自分で自分を傷つけてたオッサンたちが、ある程度「資本の論理」がちゃんと作用することで近所にあっちこっちからの観光客が来るようになって、商店街を自転車で通り抜ける時に、「ちりんちりーん、通るでぇ」と”口で”言いながら優雅に通り抜けて見せるダンディズムを発揮する方向に「競争心」を持てるような流れを生み出せるかどうか。

 

めちゃ極端な「市場原理主義」vs「アンチ市場主義」に分断されがちな世界において、実際に「市場主義」を「生身のレベル」でちゃんと受け止めて再生していくような力を、大阪は持っているはずです。

 

別の視点から言うと、東京は大きいですし、首都としての役割から常に日本全体との関係における無数の調整過程が必要なので、不自由さも当然ある。

 

一方で、大阪はそういう「国全体との調整過程」は必要ないし、しかしそこそこの国ぐらいの規模感がある(関西全体で連携すれば韓国ぐらいの規模感はある)わけですから、「いちいち東京にお伺いを立てないで済む身軽さゆえの独自施策」を始めるサイクルができたら、むしろ「グローバル経済の中に大阪アリ」という風になっていける可能性があります。

 

今、橋下氏的なものが「嫌い」な人・・・例えば人文系の学問関係者とか芸術関係者とかの「即物的でない」世界を重視してる人・・・から見ると、橋下氏やその周りにいる人達は「人間的に許せない」感じがするのかもしれません。

 

が、大阪・関西全体での「攻めの姿勢」が生まれて経済が好転することは、必ず人文系の学問や芸能関係にとっても最終的には良い影響がありますよ。イタリアルネッサンスメディチ家が産むわけですからね。

 

それに、「本当に絶望的な貧困」に陥りつつある人達を救う原資も、全体としての統一的な行動による発展の結果でしか、やっぱり得られないですからね。

 

世界で最初に先物取引を発明した商都の復活を、私は遠くから願っています。

 

とりあえず、都構想やってみなはれ、やらなわからしまへんでぇ。

 

 ・

 

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

 

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント
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