「右でも左でもない政治」は本当に可能なのか?
福島香織さんという中国問題に関するジャーナリストの方に、「SEALDsと東アジア若者デモってなんだ!」という本を献本頂いたんですが、それを読みながらタイトルのようなことを考えました。
アメリカ総選挙ではいわゆる「右」も「左」もかなりムチャなことを言う極論人間が人気になり、アメリカこれでいいのか?と全世界が不安にさせられている世の中ですが、それに限らず、「右でも左でもない必要なことをやれる政治」というイメージがキャッチフレーズとして広く望まれる時代になっていると思います。
しかし、このキャッチフレーズは誰でも言ってる時代だが難しい。安倍政権ですら多分「右でも左でもなく必要なこと」をやってると思ってると自覚では思ってるんじゃないかと思います(勿論それは安倍政権嫌いの人から見ると「物凄い右」なわけですが)。
また、さらに”安倍とは逆”の立場の人でも、8割ぐらいまで「まともなこと言ってるなあ」と思って話を聞いていたら後半突然「世界のあらゆる不幸の背後には米国の意図が潜んでいる」的な陰謀論を滔々と述べ始めて唖然とするような時があります。
そしてそういう人ですら、最近では案外「自分がやっていることは右でも左でもなく必要なことをただ言ってるだけ」だと思ってる感じなんですよね。
福島さんの本は、
本書の目的は、日本の若者デモが、古い左派政党や左派メディアの消費財とならずに、本当の意味での社会・政治をよりよく変えていくための運動に発展するための考察にある。(267ページ)
という狙いの本で、日本の「SEALDs」と、台湾の「ひまわり学連」、香港の「雨傘運動」、後は中国本土においての色んなデモなどを比較しながら、いわゆる「学生運動」的な若者のエネルギーの発露が「ちゃんと意味あることに繋がるにはどうしたらいいか」を考えてみようという趣旨なんですね。
で、この東アジアのそれぞれの国での色んな活動の中でダントツの成果を挙げたのは「台湾のひまわり学連」で、その成功のカギが、いわゆる「右でも左でもない政治」をやりきったことにあるらしいんですよ。
なので、今回は福島さんの本の紹介・書評がてら、「右でも左でもない政治」っていうのはどうやったら実現するのか?について考えてみたいと思っています。
●学生運動的なものへ思い入れがあるからこそ、使い潰されない方法を考えたいという本。
著者の福島さんは、安保法案自体には賛成派なので、あなたがシールズ側に立っている人だと「敵の言うことなんか聞けるか!」って思うかもしれないし、なんかアマゾンの書評にも「枕がわりにするには良い本です」とか意味不明な嫌がらせを書き込む人が出現しているんですが、しかし実際読んでみて思うのは福島さんの「学生運動的なもの」に対する”思い入れ”の深さです。
台湾のデモ(中国との一体化を進める中台サービス協定に反対して国会を占拠したデモ)や香港のデモ(香港の地域行政長を決める選挙制度が中国政府によって有名無実化させられたことに対抗するデモ)のニュースがあると、ちょっとジャニーズアイドルのおっかけの女性みたいなキャピキャピ感を感じさせるぐらいにフットワーク軽く現地へ飛んで、代表者に直撃インタビューをしたりしています。
その他の色んな記述の端々に、私個人などと較べても格段に「(過去の日本のものも含めた)学生運動的なもの」に対するナチュラルなシンパシーや思い入れや、「希望を託したい気持ち」がある人である印象を受けました。
逆に、思い入れが深いからこそ、そういう「学生運動的なもの」が持っている純粋に社会を良くしようという気持ちが、既存の左派政党に乗っ取られて党派争いの道具になって使い潰されてしまい、結局何にもならずに終わっちゃったね・・・とならないようにしたいという気持ちも強い。
だから、とりあえず色んな東アジアの若者デモとの比較から(特に圧倒的に大きな成果をあげた台湾の事例と比較しながら)、考察を深めてみようという趣旨の本なんですね。
●ダントツで大きな成果を挙げたのは台湾のひまわり学連
で、色んな東アジアのデモを比較すると、これは福島さん以外の人も多くの中国関係のウォッチャーが指摘していることですが、「台湾のひまわり学連」が一番大きな「成果」をあげたことになっている。
ひまわり学連の成果は、1. 単に中台サービス貿易を棚上げにしただけでなく、2. 九合一地方選挙で国民党に歴史的敗北を味わわせ、3. 現役総統の馬英九を国民党主席の座から引きずり下ろし、4. 米国に国民党政権を見限らせ、5. 中台トップ会談に意義をほとんど与えず、そして、6. 2016年1月の総統選で民進党が政権を奪還するための道筋をつけ、7. 同時に実施された立法院選では、ひまわり学連から生まれた新生党「時代力量」も議員を送り込むことに成功した。 (138ページ)
これを日本の例にあてはめると、
1 安保法案を棚上げにさせ(ちょっと対象の法案の趣旨が違いますが)
2 地方選挙で自民党に大敗北を味わわせ
3 現役首相の安倍総理を退陣に追い込み
4 米国に自民党政権を見限らせ、
5はちょっと当てはめ方が難しいですが
6 総選挙で自民党の対抗政党(民主?)に圧勝させて政権を奪い取り
7 それだけでなくシールズ独自の政党を作ってその議員も当選させた
・・・こうやって書き換えてみると超凄いですね。シールズを始めとする日本の運動にはできなかったことを全て実現させてしまっている。
福島さんによると、なぜこれが可能だったか・・・は、
「無色の学生運動」とも呼ばれ、国民党(青)と民進党(緑)の双方から距離を取り、台湾の中国化への動きに抵抗感を持つ広い市民の支持を得たことが特徴だった。
実際にはリーダーの学生二人は民進党寄りのイデオロギーの持ち主だが、運動幹部には外省人が少なからずおり、しかも運動を学生に譲歩する形で着地させたのは国民党の老練な政治家、王金平であった。まさしく青緑の対立を超えた運動だった。(129ページ)
ことが勝因だそうです。
要するに、日本の自民党にあたる親米保守政党とその対抗政党(民主党?)があった時に、「運動のリーダーたち」にはかなり「対抗政党側」の考え方が多かったにも関わらず、決してその「既存の政党に使い潰される」ようにはならず、「どちらの考え方も引き受ける」ように持っていき、しかも膠着状態を決着させるために「保守政党の大ボス」と直取引に持ち込んで決着させた・・・というわけですね。
日本で言うと、民主党や共産党寄りの考え方を持っているリーダーがやっているけれども、既存政党の色が付いてしまうことを極力避けて立ち回り、自民党側の影響力が大きい政治家で考え方が近い人間を引き入れて決着させた・・・ということですね。
そして、「シングルイシューの大事な問題」の決着を実現することに集中して、それが終わったらサッと退去してみせたのもカッコイイところです。
だからこう、要するに今回のブログのタイトルである「右でも左でもない政治」をやりきったから成果に繋がったんだ・・・ということが言えるかもしれません。
シールズの奥田さんも共産党とか等に使い潰される(というかそういう既存の左派政党の傀儡的なイメージがついてしまう)ことを危惧する発言をされていたことがこの本には載っていたので、日本のシールズも「右でも左でもない」道を進もうとはしたんだと思うんですよね。
でも最後までそれをやりきってシングルイシューの勝利を勝ち取り、かつ国全体の流れを変えて政権交代まで勝ち取った台湾ひまわりと、結局安倍政権は存続したどころか支持率もずっと安定している日本のシールズ・・・と考えると、何か「シールズ側にシンパシー」の人も考えるべき内容がここにはあるかもしれません。
●台湾や香港にはない日本の運動ならではの難しさとは?
ともあれ、台湾と香港の例と日本では、色々と国際情勢との位置関係が違うので、日本の場合簡単には行きません。
単純にいうと、香港と台湾は「アンチ中国共産党政府」の運動だと言えて、日本の場合は「アンチ米国」の運動ということになってしまうからなんですよね。
習近平政権になってから、人権派弁護士を逮捕しまくり、インターネットを監視して政権批判を即刻消すだけでなくカネをばらまいて政権に親和的な発言をさせる「政治的ステルスマーケティング」までバンバンやり、時に政権に批判的な本屋さんの経営者が「謎の失踪」をしたりする国からの圧力を実際に受けている人々(台湾・香港)と、なんだかんだ圧力はあるものの(そりゃ世界中どこの国だってあります)、基本的に個人の自由を守ってくれるアメリカからの圧力を受けている日本では、考えるべきこと、力点が変わってくるのは当然のことかもしれません。
この違いは何なのかをより本質的に考えてみると、台湾・香港の場合は「現実の脅威を倒しさえすれば、その先に生まれる秩序形成について深く考えておく必要はない」ということではないかと私には思われます。
「巨悪」である「中国共産党の支配」を倒しさえすれば良い。そうすればその先に待っているのは、「欧米的な価値観」を共有できる国際社会との繋がりの中で「自然に」やっていくだけで良くなるわけですね。
一方で日本の場合、運動家から見て「巨悪」のアメリカとの関係を精算したとして、その先に「どういう秩序を創りだすのか」について自前で考える必要が出てきている。
アメリカ最大のイベント・スーパーボウルについて分析した前回のブログでも、あと私は『日本がアメリカに勝つ方法』というなかなかヤル気満々なタイトルの本を出しているんですがその本でも書いたように、アメリカが過去20年ほどのスーパーパワーでなくなり、相対的に見れば「衰退期」に入るということは、「アメリカざまぁwww」で済む問題ではないんですね。
むしろ、アメリカなしに人類は世界戦争せずにいられるか?について、反米主義者も一緒になって考えなくちゃいけなくなっている。
アメリカ支配が圧倒的な時代はそれに内在するムチャを批判すること”だけ”でも意味があったけれども、今後はその「アメリカ支配のムチャを是正する」と同時に、「その先の秩序をどうやって保つのか」について「反米主義者も」責任を持って真剣に考えなくちゃいけない。
シールズの奥田さんが殺害予告を受けた時に日本の警察に通報したことについて、それに対して「中国が攻めてきても酒酌み交わして説得するんじゃなかったのかよ!(この発言は奥田さん本人じゃないそうですよ)」というネット右翼さんの批判が飛び交っていましたが、これは言いがかりのようで結構本質的な問題でもあります(殺害予告する人を肯定しているわけではありません)。
学生運動的なものに対して、私なんかよりかなりシンパシーがある福島香織さんが安保法案に賛成なのは、この前ご紹介した本のように「中国政府の権力闘争をゴシップ記事まで読み込んで理解する」のが福島さんのライフワークなので、「あまりにも話が通用しない隣人」のリアリティが滅茶苦茶わかっているということらしいんですね。
「民主主義を守る戦い」というのは、憲法の手続きがちゃんと守られることを監視することも大事な「戦い」ですが、一方で「殺害予告をしてくるような無法者から、”政治的な発言の自由”をどう守れるか」「明らかに段違いの人権弾圧をしている隣国からの圧迫に対してどう対処するか」も、大事な「民主主義を守る戦い」ですからね。
そして、前回福島さんの本を紹介したブログで書いたように、ある種の「拮抗状態」を維持できなくなると途端に危なくなる現実というのは確実にあるわけですね。
習近平氏が国内の「もっとやれ!」というエネルギーに対して「いやそれは無理だから」と言い訳できる程度にはこちらからも押し返しておいてあげないと、彼らの国内強硬派がエスカレートして「なんでやらないんだ!}という話になって、誰にとっても危険な状況になる。
そこで「不幸な暴発」があれば、その先の「民主主義の危機」っていうのは安倍政権がたまにメディアにブツブツ皮肉を言う『圧力』とかいうレベルの話じゃないですからね。
だから、アメリカとそのシンパである安倍政権を本当に「攻撃」して「倒して」しまったらその先どうするか?が不透明なままだと押し切ることができない。「過激な右でも左でもない多くの人間」が途中から怖気づいて引いてしまうし、やってる本人たちも腰が引けてきて自滅していくことになる。
要するに、日本の場合はやっていることの難易度が台湾より高いわけですね。だから、特別の算段を考えないといけない。単純に「ひまわりがシールズより優秀だった」とは言えず、単に「解いた問題が優しかっただけ」という言い方もできる。
●日本ならではの難しさを超えるための「メタ正義トライアングル」フレームワークを埋めてみよう
で、じゃあどうしたらいいのか?というのはそう簡単な話ではないわけですが、「フランステロ以降ほとんどできていた原稿をゼロから書き直している私の次の本(やっとゴールが見えてきてます、乞うご期待)」に使う予定の「メタ正義トライアングル」というフレームワークで考えてみたいと思います。(この記事を読んでいればわかると思いますが”メタ正義とは何か?”についてのより詳しい説明はこちらをどうぞ)
あなたが「安倍派」か「アンチ安倍派(シールズ派)」かはわかりませんが、まずは三角形の右下の頂点にある質問1の解答欄を埋めてください。あなたがアンチ安倍派なら「安倍みたいな奴ら」で、逆なら「シールズみたいな奴ら」が「敵」ということになる。
で、おそらくどちらの側にいる人も殺したいほど憎んでいることもあるかと思いますが、グッとこらえて「質問2」について考えてみます。
これはなかなか視点を変えることが必要な体験ですよね。これ大事なのは「相手が言っていること」ではなくて「存在意義」について考えるということです。勿論「相手が言っていることと存在意義は同じ」であることも多いですが、大事なのは「存在意義」の方です。
●まず先に「あなたがシールズ側(アンチ安倍側)の人」の場合を考えてみます。
まず先に、”よく言われてる方”から先に問いを消化して考えてみると、いわゆる「左翼叩き」が溢れている時代ですから、もしあなたが「アンチ安倍派(シールズ側にシンパシーを持っている人)」ならば、「殺したいほどの敵である安倍派の存在意義」については、耳にタコができるぐらいでしょうし、それを言われた時のあなたの「反論パッケージ」すらもう出来てしまってるかもしれません。
繰り返しませんが、さっき書いたような、「壊した先の秩序」を自前で作る発想が、「今の秩序の瑕疵」を批判するのと同時に必要になってきている状況なわけですね。単なる批判者でなく、「今の秩序形成機能をフルに代替できる覚悟」が必要になってきている・・・というわけですね。
で、だからといって自分が嫌なことを我慢する必要はないぞ?と自己確認するために書くのが「質問3」です。これ、質問2の後に書くからこそ、「しかし、あえてだ!」という決意を新たにすることができますね。そりゃあ事情もあるだろうが、しかしだからといって憲法の手続きを回避するのは良くないぞ!?対米追従が行き過ぎて余計な戦争に巻き込まれるのは良くないぞ!?
・・と来て、考えてみるべき一番重要な質問が「質問4」になります。
質問4 「敵」の「存在意義」をネコソギ消滅させるために、自分ができることは何ですか?
自分のコダワリを曲げない形で、質問4の答えが出せれば、相手を消し去ることも可能になります。そこに本当の「勝利」の道が開ける。
しかし、「相手の存在意義」から逃げたまま、「相手を単なるエゴの塊としての巨悪扱いするファンタジー」に酔っているだけでは、現実社会は果てしなくその「敵」を止められない流れに飲み込まれていくでしょう。
この「質問2の答」について無視して「憲法の扱いに対する手続きの瑕疵」についてだけをやたら怒って見せれば見せるほど、安倍政権側と「普通の人」がどんどんシラケて行くんですよね。いやいや俺らも「戦争したくないからやってる」し!みたいな。結果として運動が盛り上がれば盛り上がるほど「ほんの一部の人たちの熱狂」になっていってしまう。
イメージ的な例えでいうと、安倍政権側の人はマンションには消火器を備え付けようと言ってるのに「そんなことを言うヤツは火事が起こればいいと思っているんだ!だいたい消火器を備え続ける手続きはちゃんと役所に提出したのか?」とギャンギャン言われているような「気分」になっているということです(実際にどうなのかは賛否あるでしょうが)。
そういう対立が続くと、もともとはそこまで思ってなかった人もどんどん「憲法がなんぼのもんじゃい!」的な暴言を吐く輩も当然出てきます。憲法への一般的な敬意自体も毀損していってしまう。
しかし、もし「憲法の手続きの問題」を攻めると同時に、「安倍政権側の人間も納得」できるほどのリアリティを持った対中国対策や、日米関係のビジョンが打ち出せていたらどうだったでしょうか?
よく言われているように、「対米追従を辞めたい」のは保守派の一部にも相当熱烈に思ってる人たちがいるので、そこにリアリティのある提案があれば、「ひまわり学連」が成功したように、
「主催者はバリバリの左の感性で運動を起こしつつ、既存の左勢力に飲み込まれてほんの一部の人しか寄ってこない活動になることなく、かつ右の中の実力者を抱き込んで大きな流れを変える」
ような成功ができたかも?しれません。まさに「右でも左でもない」政治をやりきれるかどうか・・・ですね。
憲法問題の瑕疵を突きつつ、しかしそこで『一部の問題だけを絶対化して相手を”巨悪扱い”するナルシシズム』に陥ることなく、相手側の懸念に対して「批判でない新しい提案」が生み出せていたら?「相手側の存在意義をネコソギにできるような提案」が出せていたら?
そのことについて考えないと・・・というか、そこにある問題について考えずに「極悪人の安倍ってヤツが全部悪い」と思っているだけだと、また次も敗けるんじゃないかと私は思います。
ジョジョの奇妙な冒険のセリフで言うと、『憲法も守る、国際情勢のリアリティの中での戦略も考える、両方やらなくっちゃあいけないのが、日本人のツライところだな。』というわけですね。
(ちなみにアンチ安倍のごく一部の論客サンは結構そういう視点も持ってたように記憶しています。ただそれが埋もれてしまうのか、ちゃんと堂々と主張できる運動の軸に育てられるのか・・・が問題だということかもしれませんね)
●じゃあ「あなたが安倍政権側(アンチシールズ側)の場合」を考えると?
さて、ここまでの話はよくある「左翼叩き」な感じなんですが、じゃあこの「メタ正義トライアングル」を「逆」の立場から見てみましょう。私はどちらかというとコッチがわの心情の方が大きいので、考えるのに心理的苦労感が結構ありました。
どちらかというと「安倍側」に立っているあなたにとって「憎きシールズ側の奴ら」の「存在意義」ってのは何なんでしょうか?
私は長い間著書やブログでこういう方向性の文章を書いているので、本人は「中立的でフェアな態度」だと思ってるんですが、時々滅茶苦茶ケンカをふっかけられます。たまに「ゴキブリ」って一言書いたメールが届いたりする(笑)。もちろん殺害予告っぽいメールも来ます。
で、その中でも、まあちゃんと話ができる人たちと話してみて理解できてきたのは、「安倍政権側」に立っている人と「逆側」に立っている人とでは、「普段生きているだけで感じている抑圧の大きさ」が全然違うんだということです。
関係ないようである話をしますが、最近、ウチの近所の「無化調(化学調味料無添加)がウリのラーメン屋」にハマってるんですが、これがほんと滅茶苦茶ウマイんですよね。スープ全部飲んでも全然胸焼けしない。味も深い。感動的な旨さ。
でもそのラーメン屋の本棚に、「美味しんぼ全巻」と、あと陰謀論に満ちているので有名な消費者運動本がズラリと並んでて、「こりゃちょっと友達にはなれそうもないな(笑)」と思いつつ、でもあまりにウマイので週1ぐらいで通ってるんですけど。(ちなみにBGMはJポップのボサノヴァカバーアルバム)
他にも、例えばベーコンとかハムとか言った加工肉製品とかは、ネットで「頑固ジジイのコダワリ品」を買うと「スーパーで売ってるアレはいったいなんなんだ!」ってぐらい全然違う味がしますけど、そういうコダワリのオッサンが安倍政権の支持者っていうことはちょっと少ない気がします。
さっきまでハムについて凄い深い話聞けてたなあ(この時点ではいわゆる”デキルビジネスマンタイプ”よりもよっぽど仲良くなれそう)・・・と思ってたら突然物凄い陰謀論が始まって唖然とすることがあります。
だから、「既にある権威」の”内側で”生きられている人と、「そこでは自分の居場所がない」と感じている人がいて、「居場所がない」人にとっては陰謀論や過剰なユートピア思想は致命的に必要なものなんだ・・・ということが、最近わかってきた、安倍政権側の人間にとっての「質問2」の答だと思います。
この「致命的」っていうのは本当に「切実に文字通り致命的」なんだろうと思います。そこが揺らぐとちょっと統合失調症になってしまう可能性があるほどの生身の緊張感がそこにはある。「世の中の普通」の圧力を跳ね返しながら美味しいハムを作る情熱を維持するために必要な「ハリ」がそこから生まれている。
で、そうはいっても安倍政権側の人にとっての「質問3」の答だってそれぞれなりにあるわけだから、妥協は決してできないぞ・・・となってからの「質問4」ですよ。
質問4 「敵」の「存在意義」をネコソギ消滅させるために、自分ができることは何ですか?
こういう方向性、なんとかならんかなーって最近私は色々と考えています。ある意味で、そこが解決するまで過激な陰謀論やユートピア思想の暴発が「滞りのない決断」を邪魔し続けることは「必要」かどうかはともかく「必然」では少なくともあるように最近は感じている。
要するに、「そこに何らかの問題がある」ことのアラートとしては大事なメッセージなんですよね。「彼らの居場所を作ってあげられるか・彼らの問題意識のコアを吸い上げられるか」・・・それを「安倍政権側にいる人の方法論で」実現できるかどうかが問われている。
ブログとしてはもう相当長いので詳しくはいずれ出る今書いている本か、過去の著作(これとかこれとか)を読んでいただきたいのですが、一つだけ例をあげて考えると、最近子供の貧困問題NPOの代表の女性と話をしてるんですよ。文通しながら個人の人生の戦略を一緒に考えるサービスの一環としてね。
そのNPOが出してる資料で、実際に「困っているシングルマザーの話の聞き書き」を大量に読んだら凄いショックが大きくて頭がクラクラしたんですけど。(いやほんとマジで深刻です。自己責任とか言ってる場合じゃない)
ただ、そのNPO代表の女性と今話しているのは、この運動が「党派的なものにならないように」するにはどうしたらいいか?ってことなんですね。
この問題は、油断するとすぐに「いかに日本の男どもが腐ってるか大演説」に吸い寄せられやすいじゃないですか。
でも、そういう方向で燃え上がれば燃え上がるほど、本来その「シングルマザーと子供の貧困」に胸を痛める可能性があった多くの男が、入り口で回れ右をして帰っていくサマが目に浮かびますよね。
そこを、「どっちの人でも乗れる旗印」に持っていけるかどうか・・・
例えば「養育の社会化」って最近よく言われるんですけど、これ「日本の男がいかに欧米と較べて腐ってるか大演説」よりは随分マシな感じがしますが、でもまだちょっとカタイ気がするんですよ。「自分の家族」を大事にしたいタイプの人を断罪している気がする。
例えばこれが『昔の集落にあった”頼れる実家感”を再生する仕組み』というぐらいの感じになれば、そのフレーズをいわゆる「養育の社会化」だと理解する人も乗っかれるし、逆に「ちゃんと家族が安定してない子供たちは可哀想だ!俺らもなんとかするぜ!」という男どもも乗っかってこられる旗印になるんじゃないか。
実際その女性はそういう方向で「産経新聞の」インタビューに答えていて、すごい数の「いいね」がついてました。
もちろんこれは「たたき台」にすぎなくて、「もっと刺さるキャッチフレーズ」をブラッシュアップしていくべきですが、ともあれこういう方向性で進んでいけば、「どの党派の人からもお金を集められる」わけで、「困っている人」へ届く実弾もどんどん大きくしていけるはず。そういうのを集めるネットの仕組みも整っていく時代ですしね。
言論の自由の国ですから、もちろん「日本の男どもがいかに腐ってるか運動」はそれはそれで続けていただいていいんですけどね。
でもそういう党派性を持った運動とは違う形で、「リアルに困っている人」へ直撃弾としての支援を引き寄せられるような文脈について考えることで、「安倍政権側」に立っている人が「過剰な理想主義」に混乱させられ続けることがなくなる道が開けるんじゃないかと考えています。
ある意味で、あの「日本の男が腐ってるか演説の奴らより、俺たちの方が本当に貧困問題を解決してやれるってところを見せてやる!」的な方向の、「抜きな!どっちが素早いか試してみようぜ」あるいは「僕が一番、ガンダムをうまく操れるんだ」的な感情に火が付くことが、この問題の解決の「最短経路」ではなかろうかとすら最近は思っています。
そうするには、「個人」として「問題」とぶつかり続けることが必要で、ある意味で「隣の仲間とのヌルい繋がり」を必死で振りほどくような孤独が必要なんですけど。
実際、そのNPOの女性はNHKドキュメンタリーに長期間密着取材されたことがあるんだけど、あまりに「よくある話に結びつけようとする」テレビの文脈がどうしても受け入れられなくて途中で拒否したそうです。
そういう孤独な苦労をして、短期的なパブリシティを犠牲にしてでも、「党派性」を振りほどいて「問題そのもの」に個人で迫ろうとするアクションは、日本のあちこちに今存在しているような気がしています。
逆に言うと、そういうアクションは台湾や香港にはまだない。すぐに「党派」になっちゃうアメリカにも無いかもしれない。現地現物と「欧米的概念」のギャップに悩み続ける日本人が、ポストモダンすぎる世界の混乱の先で掴みとろうとしている希望かもしれない。
さっきの「メタ正義トライアングル」を埋めてみて、その上で「マスコミ文脈によくある党派論争」じゃない形で、本当に「右でも左でもない」をやりきるにはどうしたらいいか、「あなた個人」が考えてみる・・・そういう時間を取ってみていただければと思っています。
そういう意味でも、「福島さんの本」は惰性で絶対化しがちな問題を東アジア諸国と比較することで相対化してくれる「考えるキッカケ」 として良書だと思ったので、よかったらどうぞ。
それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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