テロが当たり前の時代の『あたらしい正義』について。

フランスのテロ事件は、今まで「その話は公的には黙殺することで現代社会を成り立たせていた」問題をすべて白日の下に晒しつつあるように思います。

 

ベイルートの死者は無視なのに、パリで死者が出たら全世界が大騒ぎするってどうなんだ?という話は、事件以前だってずっと「リアルに存在する大問題」でしたが、事件前にこんな話を堂々とフェイスブックで言い出したら「はいはい中二病」扱いで黙殺されていたようなことです。

 

それが今や、全世界的にホットな話題になり、”キャッチーでファッショナブルな範囲で”堂々と扱える内容になった。(余談ですが私は少年時代”にザ・イエローモンキー”というバンドが好きで、こういう問題を扱った彼らの有名な歌詞をネットで酷評されまくっていたのを見ていたので感慨深いものがあります)

 

 

また、「テロをする人間にはテロをする人間の正義(あるいは少なくとも”切実な事情”)がある」という話と、「テロリストをちょっとでも擁護することはそれ自体許されないことだ。たとえどんな事情があってもだ!」という立場には、どちらにもかなりの真実性が含まれているように思います。

 

正義が一元的なものではなくなり、いろんな正義があり、それぞれが必死にその正当性を主張している。その「主張」は、言葉によるものに収まらなくなり、デモならいいけどテロにすらなるようになっている。

 

こんな時代に、「正義」という言葉を私達はどう考えたらいいのでしょうか?

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三色旗でテロ追悼することは中東に対して失礼か?

お久しぶりの投稿です。次の本の原稿が完成するまでソーシャルメディア絶ち!とかやってるうちに半年もたってしまいましたが、一応原稿できたのでネット活動再開します。(出版の続報についてはまたいずれお知らせします)

 

再開一回目の話題は、パリでのテロについてトリコロール(フランス国旗の三色旗)を掲げて弔意を表すことは、中東の人に対して失礼なのではないかという議論について。

 

今日久々にフェイスブックに入ったら、いろんな友人がこういう方向の意見を述べていました。

 

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大阪都構想の投票結果について『分析』より大事なこと。

大阪都構想住民投票は、物凄い僅差で否決されましたね。

 

個人的には結構ショックを受けて、数日ネットで何かアップするような気持ちにはなれなかったんですが、その後多くの人の分析や論評記事を拝読して、その分析自体には「ナルホド」と思うと同時に、あまりにも「この混乱した大阪の状況自体をどう好転させられるのか?」についての感覚があまり湧いてこない状況は良くないんじゃないかという気持ちを持つようになりました。

 

コンサル会社では、「分析としては面白いけど、どう打ち手に繋がるわけ?」というような手厳しい(笑)、でも本質的な指摘が上司からよくされます。むしろ混乱が増して前に進めなくなるような分析なら、いくら正しくても無い方がいいんじゃないかというような文化です。

 

まあ、そういうのはマジなアカデミック的には不誠実な態度ということになるのかもしれませんが、しかし、ただ分断をさらに煽るだけになる方向性しか示されないのは、誰のためにもなってないのではないかというように思いました。

 

目次は以下のとおりです。

1・データの見かけと「そこにある本質」とのギャップを考えてみよう

2・粗い分析で対立を煽るより「実感」からのポジティブな話を

3・「細雪的調和」のタイミングを両派で睨みながら押し出して行こう

4・みんながええようにいったらええなあ

 

 

1・データの見かけと「そこにある本質」とのギャップを考えてみよう

 まず、少し脇道にそれますが、考える題材として非常に重要なことだと思うので、境治氏というコピーライターの方が書かれたネットフリックスというアメリカ企業に関する記事の話をします。

 

ネットフリックスはアメリカのVOD事業(ネットで注文するとネット配信でその場で映画とかが見れる)の巨大ベンチャーなんですが、彼らはユーザーの試聴履歴を解析して「あんたこういうの見たいんじゃないの?」というオススメを出すことで、既にユーザーの注文のの7〜8割がオススメから来ているほどらしいんですが、なんとそれだけの精度のオススメをデータから出しているのに、ユーザーの「属性情報」は一切取ってないそうです。

 

つまり、男性か女性か、何歳ぐらいか、どこに住んでいるのか・・・というような属性情報を一切取らずに、その”個人”の試聴履歴のビッグデータ解析からだけのオススメによって圧倒的な精度を実現しているわけです。

 

こりゃあ、なんというか凄い時代になったなあ・・・と、こういう話を聞くたびに私は思います。

 

つまり、70代の日本人女性でずっと日本に住んでいても長年通訳の仕事をしている人であるために勉強のためにアメリカの映画しか見ない(しかも超グロいゾンビ映画が大好物な)人もいれば、20代男性でニューヨークに住んでいるアメリカ人でも日本の超絶萌え系アニメを日本語で見ることにしか興味ない人もいるわけで、結局属性じゃなくて個人の履歴だけから「純粋に機械的」に検出されたオススメの方がフィットするという時代になったのだということです。

 

これは間接的に言うと、今回の都構想の結果について、「男女比・年代・どこに住んでいるのか」の見かけの数字だけに引っ張られると結構危ういんじゃないかということでもあります。

 

と、言うのも、今回の結果は、「属性情報」で切っていくと、どの視点で見てもだいたい「丸めてしまえば半々」ぐらいの差でしかないからです。

 

傾向として、キタに住んでる方が賛成派が多い、70代以上に反対派が多い・・・という程度のことは言えますが、しかし70代でも「比較的反対が多い」という程度です。

 

で、より重大なのは、「それほど真剣に確立した立場」をみんなが持っているわけではなさそうだということでもあります。要するに、反対を投じた人も、人生賭けた確固とした持論として反対というより、なんかちょっとした雰囲気の変化で・・・それこそ「地下鉄の敬老パスは絶対維持します!」って最後にもし橋下市長が思いつきで叫んでいたとして、それがニュース映像でちょっと流れてたりしたら「ほんなら賛成でもええか」になってる可能性があるという程度のことである可能性があります。

 

私はブログでも著書でもあんまり「データ」を提示しない人間で、その辺今の流行とは随分違うモードで書いてるんですが、それはコンサル会社的体験から、「結論ありきでデータって適当に作れちゃうんだよなー」という諦観が染み付いてしまってるからでもあります。で、賛成側も反対側も必死で「自分に都合の良いデータ」を突きつけ合っていても、憎悪がお互いに募るだけで前向きな話にならないということについて結構真剣な危惧を抱いています。

 

もちろん、「考える素材を提供するブログ記事」として大事だというのは絶対的にありますし、学問の現場や経営の意図決定の現場において物凄くクローズドにプロフェッショナルを集めて密度を高めた人間関係の中でシッカリデータと向き合うチームがいる場合は別なんですが、ネットを介した分散的コミュニケーションのようなフワッとした場においては、常に「データの見かけ」の裏に「現実」があって、それはどの程度このデータのメッセージと対応しているのか?については、一歩引いた目線で考えた方がいいと私は考えています。

 

(余談ですが、「本当に凄いビッグデータ分析」的なものは、むしろ結構「ぼんやりした人間の直感」的なものに近づきつつあり、「属性情報的な切り口から切っていく人為的な分析」の問題点が徐々にホリスティックに克服されるようになってる時代だなあという感触を私は持っています。)

 

 

2・粗い分析で対立を煽るより「実感」からのポジティブな話を 

というわけで、粗い分析で対立を煽るより、あえて「実感」からのポジティブな話をしよう・・・というコンセプトで今回の投票結果をまとめると、

 

今回の問題は、そもそも票数的にほぼ互角だった上に、

「反対派」の中にも今のままでいいとは思ってないが、しかし橋下・維新の今回の構想には反対するという人が多くいる

 

 ことから、この問題については、

「何らかの改革が必要ということはほぼ全員が考えている。しかし、誰がどうやってやるか?については色んな意見がある」

 

 という状況なんだという風に理解するのが良いのだろうと思います。アカデミックな専門家以外が今後を考えるにあたっては、これ以上「分割」し始めてもあんまり良いことないんじゃないかと。

 

また、今回は「反対派側」も、推進側に対抗するために、

・「そういう改革は都構想じゃなくてもできる」

・本来我々はもっとラディカルな道州制に向かうべきで、都構想なんて中途半端である

 

といったような空手形を切りまくっており、これがちゃんと回収される状況になるのならば、橋下維新的な存在が「やりすぎ」てしまう部分を柔らかく受け止めつつ、「本当に必要な改革」は実現できる・・・という情勢に持っていける可能性があります。

 

橋下氏が「敗戦会見」で、嫌われても論点を明確化するようなリーダーはどうしても必要だったが、しかしそういう存在はワンポイントリリーフであるべきだ、これからは敵を作らないタイプのリーダーが前に進めるべき時だ、というようなことを言っていて私はかなり感動してしまいました。

 

橋下氏が嫌いな人は、橋下氏やその周囲にいる人間を徹底的にゲスなエゴの塊のように理解する傾向がありますが、今の日本において彼のような立場にある人が陥りがちな難しい状況を考えると、彼の上記の言葉だけは、一度虚心で受け止めて次に活かして欲しいと思っています。

 

何もせずにただ衰退するのが嫌だという人が多くいる状況の中で、なんとか改革を形にしたいと願う人間は、多少なりとも荒っぽくならざるを得ない(特に日本のような現状維持の惰性が強力な社会においては)。そしてその時に「橋下氏のゲスなエゴ」のように見えるものは、実は「あなたが生きている世界の見せかけの安定の裏に弾き出された無理」が噴出しているだけでもあるのです。

 

彼らとは違う良識的なやり方で、しかしちゃんと前向きな変革を実現していく情勢を作れた時に初めて、あなたは橋下氏がゲスだと嘲笑う資格を得ると言えます(でも多分その時期までなったら彼への適切な敬意も湧いてくると思いますが)。

 

「絶対反対」になってた70代のご老人だって、「大阪がこのまま沈むだけやったらアカンというのはワシも同意しとる!」ぐらいの浪花節回路にちゃんと接続できれば前向きになれる可能性だってあるわけですし、橋下氏が起点となって明確化した論点を、ちゃんと前向きに取り入れることができるかどうかが、「勝利者」に今後厳しく問われる状況になっていくでしょう。

 

で、今後どういう「ゴール」が考えられるのかについて、随分前から私は「細雪的ゴール」が実現したらいいなあと思っています。細雪?まあ詳細は最後まで読んでいただければと。

 

その前にちょっとだけいつもやってる自己紹介を、色んな人にシツコイと言われながらもするんですが、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

 

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

で、その遍歴的に結論的に考えるようになった「あるべきゴール」は、結局この「対立」は果てしなく続いて行くしかないが、続くに従って「環境条件」が変わってくるので、幕末期に水と油のような性質の違いを持っていた薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結んだように、「適切な新しい連携」が生まれてくる情勢になるだろう(そこまで行くには対立し続けるしか無いが、いざという時の連携についてはみんなが考えていけるようにしよう)ということを考えています。

 

詳しくは、投票前に書いた記事↓をお読み頂きたいのですが、

keizokuramoto.hatenablog.com

 

アメリカ一極支配が緩んでくるここ何年かの世界の中で、昔なら「市場原理主義」vs「アンチ市場主義」は「お互い物凄く極端なこと」を言わざるを得ない状況だったのが、徐々に「本当の経済合理性」を両派の合意で実現していける情勢に近づいて来ています。

 

「市場側」が言うことは、5年前だともっと極端で、日本ならではの優秀性の確保伸長といった視点が全くない「グローバリズムの威を借るキツネ」みたいな言説になりがちでしたが、最近は世界的な情勢変化もあり、また「派手な旗を立てなきゃいけない商売事情がある”論客”サン」たちとは違う「多くの普通の働き手」の間に「良識的な共有感」が出てきているので、逆に物凄く「アンチ市場」なことを言う論客の方が徐々に歴史的使命を終えつつある情勢になってきている。

 

そういう「全体的な歴史の流れ」を考えると、過去10年「どちらかの極論」に走れずにグダグダやってきた我が国ならではの、

てめーら、日本は果てしなく何も決められずに沈んでいく終わった国だと思ってただろ!?

しかし、これぞ我ら一子相伝の深謀遠慮の『策』なのだッ!

これから「死中に活を求める」という「知恵を超えた智慧の力」を見せてやるぜッ!

 

的な連携を生み出していける可能性があるということです。

 

つまり、韓国やシンガポールやアメリカのような、「狭義のグローバリズムに直接フィットする存在だけを伸ばして他をなぎ倒してしまった国」にはできないような、「最先端性と底辺の安定性を両立する良識的な市場主義」の実現においてトップランナーどころか世界の希望になれる可能性がある。

 

インテリのエリートが全権を握ってザクザク切り回せる国では頭が良すぎて決して実現できなかったレベルでの、社会の末端まで本能的に動員できる最適連携の実現が、目の前まで来ているわけですよ。過去10年どっちつかずだったからこそ踏み込める領域がある。

 

「人知」的な属性分析が、ホリスティックなビッグデータ分析に飲み込まれていくような時代の中で、日本人が捨てずにグズグズしていた優柔不断さの奥にある力が、「割り切りが良すぎてしまったことによって取り返しが付かなくなった欧米文明」を根底から補完する可能性を生み出すわけです。

 

で、そのために必要なゴールが、歴史的なタイミングとして徐々に近づいている「細雪的な調和」だなあと思っているわけです。 

 

 

3・「細雪的調和」のタイミングを両派で睨みながら押し出して行こう

 

谷崎潤一郎の『細雪』という作品をご存知でしょうか?

 

インテリで日本文学好きのガイジンには、「Makioka Sisters(細雪の英題)」がサイコー!って言ってる人を結構見かけますし、あの「日本文学はほとんど読まずに生きて来た」と公言する村上春樹氏も「何回も繰り返し読んでしまった」とどこかで書いていました。

 

(私は文学のプロでもないのに知ったようなことを語ってしまいますが)例えば南北戦争後の南部アメリカとか、ラテンアメリカの奥地とか、滅び行くアジアの王朝とか、日本のメチャクチャ田舎の村とか、そういう「現代文明によって消え去っていく因習の世界」の中にある人たちの「生き様」をそのまま克明に描く美しさ、というのは、1つの「純文学」の大きなテーマの1つらしいんですね。

 

細雪は、太平洋戦争開戦前後ぐらいの時期の、「大正時代は大阪船場で物凄く名の知れた商家」だった家に育った四姉妹が、その「船場の商家」の文化が滅び行く時代の中で、三女と四女の結婚相手を探しながらアレコレする・・・というあらすじです。

 

正直、原作は「筋書きらしい筋書きもないのにあまりに長い」ので、私は上巻の途中で挫折してしまったんですが、吉永小百合さんが出ている映画版が非常に有名で、これだと忙しい現代人でも楽しめる良作だと思います。DVDも出てます

 

で、『細雪』はどんな話かというと、ようするに四姉妹の長女さんは、「古い考え方」に固執していて、「マキオカの人間ならこうでないとダメ」というのが強くあるんだけど、三女や、特に現代的な四女はそれが煙たくて仕方ない・・・というような人間模様が続くわけです。次女さんはなんとなく中立的。

 

三女・四女の結婚相手を探してるんだけど、「マキオカという家の、失われた過去の名声へのプライド」が邪魔をして色々とうまく条件が合わないまま、しかしお金はまあまああるから美しい着物に観劇に京都見物に・・・という平安貴族絵巻的な生活をしていたりするわけですね。

 

で、話として非常にツイストが効いてるのは、長女さんも次女さんも、「婿養子」を貰ってるんですよ。そしてどちらもサラリーマン。

 

実際には既に「マキオカの商店」は閉じてしまっていて、本家の長女さんも分家の次女さんも、そのサラリーマンの夫の稼ぎで暮らしてるんだけど、でも「マキオカの人間ならこうだ」というプライドは維持している。

 

で、こう書くと、ほんと「因習に囚われた嫌な人」って感じなんですが、でも婿養子に入ってる長女と次女の旦那さんも、それを「物凄くイヤ」とは思ってないし、昔からのマキオカへの奉公人だった家の人たちも、そこにそういう「プライド」を持って生きていてくれる人がいることで心の安定を得ている部分もある。

 

同時に、放っておくとどんどん「下流への競争」になりがちな、着物文化などの伝統工芸業界を支えているのが、そういう「旧家のプライドを引き受けて生きている人」であったりするという構図なんですよね。

 

つまり、「単に時代遅れなイヤな女を描く一面的な作品」ではないからこそ名作なんで、旧家の中に生きるありようが持っている「功罪両面をちゃんと描いているからこその滅びの美学」というわけです。

 

で、ここからがちょっとネタバレ注意なんですが、映画は既に3回ぐらい見ていて、毎回私が「いいなあ」と思うのは、最後の方で、長女さんの旦那さん(銀行員)が、東京へ転勤になるんですよ。

 

東京の丸の内支店長になるって言うんで、「サラリーマン文化」を共有してる次女の旦那さんは「うわー栄転ですやん!良かったなあ兄さん」みたいな感じなんですが、それに「マキオカシスターズ」はカンカンに怒ってしまうんですよね。

・「私は京都より東へは行ったことがないのが自慢やったのに」

・「マキオカの本家の人間が大阪におらんでどないすんねんな」

・「あんた、断るわけにはいかしまへんのんか?」

という感じで特に長女さんがずっと反対して、 で、婿養子だというのもあるけどそれなりに長女さんを尊重して生きている旦那さんはほとほと困り果ててしまうんですけど。

 

で、長い長い話のクライマックスが、結局長女さんが東京に行くことを受け容れる・・・という「え?それだけ?」のことなんですが、そのシーンが凄く「良い」んですよ。

 

なんか見ていて「じいいん」と来るものがある。ぜひ2時間ぐらいの映画(レンタルもあるはず)なんで味わってみてください。欧米にキリストの「許し」の哲学があるとすれば、東アジアにはこの「メンツを立て合う解決の知恵」があるぞ!というような・・・まあ大げさに言えばですが。

 

旦那さんも、「よう決めてくれはった!ありがとう!」って拝む感じだし、長女さんも「今まで苦労かけましたなあ」的な感じで頭を下げている。

 

あのシーンには「滅び行く世界側に確かにあった良識担保機能」に対して「市場側が敬意を表する」儀式的な価値が凄く伝わってくるんですよね。

 

で、両派の思いを存分に入れ込みながら、「これから忙しなるでぇ!」的な希望が満ちてくる、そういう「場」が生まれてきている。

 

もし長女さんが意地を張らずに最初からホイホイ転勤について行っていたら「守れなかった価値」があるんですよね。でも突っ張って突っ張って、でも色々な状況の変化があって、そしてあるタイミングで「時が満ちるように受け容れる」からこそ、お互いに「本質的な価値の共有」が生まれる形式が生まれている。

 

4・みんながええようにいったらええなあ

 

ここまでのメッセージを一枚絵にまとめると、以下のようになります(クリックで拡大します)。

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そういう「細雪的な調和」のタイミングは、アメリカ一極支配が一歩ずつ後退する今後の世界の中で、一日進めば確実に一歩近づいてくる「状況」ですからね。

 

「見かけ上の対立」を繰り返しながら、我々は徐々に人類代表としてその「調和点」を目指して動いていくべき時なわけです。

 

最後のシーンで、長女さんが遠くを見るような目で

 

「みんながええようにいったら、ええなあ」

 

って慨嘆するシーンが私は凄い好きです。

 

今後も、日本ではまだ色々な「対立」が激化していくでしょう。「改革」を全拒否にすればするほど、日本が完全に閉じた孤絶的社会になることは不可能な時代的事情ゆえに「改革派」はより過激かつ無理やりな行動をせざるを得なくなってくる。

 

しかし、その「総体的な状況」を日本のインテリの集合体が理解しながら、その「細雪的調和点」を横睨みにしながら「しかし、あえてッ!あえて今は断固として反対するのだ!」という心の痛みから逃げずにいる時には。

 

橋下氏が残した「功」も「罪」も、均等に適切な評価を我々は与えることができるようになるでしょう。

 

橋下氏の「功」に注目したいタイプのあなたも彼の持つ「罪」の方について、そして逆に橋下氏の「罪」しか見えないあなたは、ぜひ彼の「功」の部分を自分の世界観の中に位置づけられるように持っていっていただきたい。

 

その先に、「漫画スラムダンクのラストシーンにおけるルカワと花道のパス」のようなタイミングは、必ずやってくるでしょう。

 

紙幅の問題で詳しく触れられませんが、その「新しい調和点」に導くことから、日本における「右傾化」の問題や、東アジアの平和問題、そして世界の「アメリカvsイスラム国的対立」などの問題について、「20世紀型の紋切り型の罵り合い」ではないかたちでの、「逆側の人間にも敬意を払える解決のありよう」が見えてくるのです。

 

そういうゴールについては、私の近著↓

amzn.to

をお読みいただければと思います。

 

では最後に、あなたもネットでの論戦にお疲れのあなたもふと冷静になって、関西の旧家の怖いお姉さんになったような気持ちで、遠い目をして、ご一緒に以下のようにご唱和いただければと思います。

 

みんながええようにいったら、ええなあ・・・

 

 

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。また、ご要望が多かったフェイスブックも始めたので、友達申請を頂ければ(明らかなスパム以外受け入れますので友達になりましょう)ツイッターと同じフィードを受け取っていただけます。

 

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント
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こいつの言ってること面白いぞ?と思ったあなたは、こちらの記事から私の今までの活動に触れていっていただければと思います。

(当記事の絵や図は、出典を明記する限りにおいて利用自由です。議論のネタにしていただければと思います)

 

大阪人の”ダメ人間化スパイラル脱却”の為に都構想実現を!

大阪都構想住民投票が迫り、推進派・反対派の宣伝合戦がタケナワです。

 

それについて、「賛成派・反対派」の両方のカルチャーの事情を身を持って知ってる私なりに議論に役立つような視点が提供できそうなので書きます。

 

というのも、都構想を推進しているグループには、私が昔いたマッキンゼーというコンサルティング会社の人間がブレーンとして多く関わっていて、元直接の上司や、先輩などからたまに話を聞くことが過去にありました。今も私は経営コンサルタントだから彼らがやりたいことは内容としてわかります。

 

一方で、過去に私の本を出してくれたある編集者の人は、「都構想絶対反対派」の有名人のほとんど全員と次々と仕事をする人で、その結果私が出している本の読者の人をツイッターなどで見かけると、かなりの比率で「大阪都構想絶対反対」という人が多いです。

 

だから私は「2つの全く違うカルチャー」の交差点にいると言っていい。

 

そもそも、私はそのマッキンゼーに入ってから、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきた人間なんですね。

 

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

だから、「反対派」側のカルチャーの人の言うことは凄いわかるし、それこそ人生色々かけて「反対派のカルチャーの人たち」の言うことを理解し、活かそうとしてきた自負があるわけです。

 

ちなみに私は神戸出身で今は関西に住んでませんが、大阪は父親及び多くの親族の故郷で、マッキンゼーの後転職した船井総研という会社時代の職場であり、その当時の取引先が多くあり、当時交際していた女性の家に転がり込んで住んでいた街であり、さらに上記の「訪問販売」時代にはありとあらゆる大阪の下町の路地の奥まで入り込んで訪問販売してたぐらいの関わりはあります。

 

で、そういう人間なりに意見を述べたいんですが、全体としては

反対派の意見も理解できるところはあるが、ここは前進しといたほうがええで!

と言う話をしたいと思います。

 

目次は以下の通り。 

1・反対派の議論は正直あまり説得力がないと思う。

2・”安定性維持”のための反対派の懸念はわかるが、動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。

3・大阪人特有の「ダメ人間化スパイラル」脱却を!

 

 

1・反対派の議論は正直あまり説得力がないと思う。

例えば反対派のボス的存在?の京大大学院教授の藤井聡氏が書いた「7つの事実」というキャンペーンがあります。

 

これは反対派の方々の中ではかなりの頻度で引用される内容で、字面を読むとちょっと説得力ありそうなんですが、しかしよく考えてみるとかなりイチャモン的な内容なんですよね。

 

大きな改革をとりあえず一歩めから始めようという話に対して、「完全な理想像」をぶつけて論破したつもりになってる感じというかね。

 

「現状のシステム」を基準に「改革案」にケチをつけはじめたらいくらでもできるんですが、しかし「とりあえずこれから始めて、問題があるんならそれも全部取り入れて行ったらええやん」という発想でいかないと結局何もしないまま緩やかな衰退だけが続くことになるので。

 

 例えば今回の投票が、「都構想」自体の実現の投票じゃないというのはそうなんですが、ちゃんと動き出したら、だんだん広範囲に広げていけばいいし、「東京の特別区にありがちな問題を避けられる”良い特別区”」を自前に考えて制定していけばいいし、名前だって都に変えたらいいだけの話なんでね。

 

他にも一個一個についてコメントしてもいいんですが、箕面市の倉田哲郎市長の書かれたこの記事が凄くまとまってるし、説得力があるように思いましたのでそちらをご参照いただければと思います。(特に4と5についての反論が、都構想推進者が持っている問題意識をちゃんと説明している良い内容だと思います)

 

2・”安定性維持”のための反対派の懸念はわかるが、動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。

で、「反対派」に対して私が一応理解できるのは、「反対派の言ってる内容」ではなくて、「橋下氏的なもの」がこのまま前進していった時に社会の安定性が保てるのかどうか?っていう部分なんですよね。言ってる「内容」はともかくその「危機感の表出」という意味では理解できる。

 

実際、橋下氏が府政・市政を担うようになってから、「改革」を行ったいくつかの領域で直撃的な影響を受けた人の中には、ほとんど「憎悪」というレベルでの反対を唱えている人がいますし、そういう人たちの反論のうちの”かなりの部分の”意見は傾聴に価すると思います。

 

そりゃ過去の改革の中には「失敗」も結構あっただろうと思います。

 

要するに「全体的なガバナンスを利かそうとする動き」が「現場的な安定性を損なってしまう作用」というジレンマは常にあるからですね。

 

まさに「そういう問題意識」ゆえに、冒頭に書いたような私の「色んな人になんでそんなアホなことを?と言われ続けた模索」はあったわけなので、その問題意識は物凄くわかる。

 

で、この問題について色々と探求してきた私から、「反対派側の懸念」を共有しているあなたにお伝えしたいことは、

 

むしろまず一歩動き出すことでその懸念も吸い上げられるようになる。

 

ってことです。

 

逆に言うと、どっかで前に進み始めないと永遠に”改革派”は余計に過激にならざるを得ない構造があるんですよ。←これ、凄い凄い大事なことね。

 

例えば反対派の論調の中に、「それは都構想でなくてもできる」という文言が多くあって、その辺が例えば「都構想による財政削減効果の算出」の時に全然違う数字になることに繋がって来るんですが。

 

で、まあ「都構想でなくてもできる」のは理屈としてはそうなんですが、それを誰がやるんだ?っていう話があるんですよね。

 

とりあえず維新がある程度の支持率を得ていて、まとまった方向性が示されている時にやらないと、絶対誰もできないですからね。

 

だから、「橋下氏の改革が荒っぽいものにならざるを得なかった」責任は、「反対派」の一部にもあるっていう発想が必要なんですよ。なぜなら、「改革のエネルギー」は「橋下氏周辺のエゴ」ではなくて「普段の”見せかけの安定”の裏側で本当は存在している無理」が人の形を取って噴出しているだけという性質があるからです。

 

セクショナリズムが横行して、全員が自分の身の回りのことだけを見ていて、その「身の回り」についたら凄い責任感もあるけど全体で見ると連携が全然なくて、その結果として末端にヒドイ不幸がシワ寄せされる・・・っていうのが「日本人のよくある過ち」ですよね。(先の大戦の反省を本当にやるならまさにその問題をどうするかを考えないといけません)

 

その「大きな連携を取ろうとする動き」に対して誰も協力しないでいると、「連携を取ろうとする動き」は、荒っぽくなっても前進せざるを得なくなる。

 

だから逆に、「やるぞ」という方向で固まれば、「じゃあどうやるか」の中に「反対派の懸念」も入れ込める情勢になるんですよね。

 

で、「構図」的には実は似たような問題を抱えている大塚家具のお家騒動問題について書いた記事↓

keizokuramoto.hatenablog.com

でも書きましたが、これは例えば「5年前」ならできなかったことなんですよ。

 

5年前なら、まだ世界全体の情勢的に、「アメリカの一極支配」が強くあったから、「市場原理主義者」的な経済評論家とかコンサルタントは、「現場的なもの」を抑圧しすぎる方向に暴走しがちだった。

 

その時期には、やはり「アンチ市場主義」的なものの中の原理主義的な人たちにも意味があった。

 

が、世界情勢が「アメリカvsイスラム国」的な多極化時代に入って、「どっちが完全に正しいわけでもない世界の空気」が強まってきている中で、今の日本は「その次の理想」を描ける理想的ポジションにいるんですよ。

 

その結果、例えば最近デーヴィッド・アトキンソン氏という元ゴールドマン・サックスのイギリス人金融マンが、小西美術工藝社という日本の伝統工芸の会社を再生させた話などがフィーチャーされるようになってきている。

 

アトキンソン氏は、小西美術工藝社の社長になってから、文化財の質に関わらないコストを徹底してカットした上で、果てしなく年功序列で上がっていく職人の給料を高齢層の部分である程度抑制した分、若手職人を全員正社員として登用、技術の継承にも力を入れ、また国内の文化財の修復には中国産でなく日本産の漆を使うべきだという運動を起こして実現させたり・・・と、八面六臂の大活躍をされています。

 

配慮しながら「全体最適」的なガバナンスを通すことで、むしろ「現場的な強み」がちゃんと活かせる構造を生み出すような結びつきが生まれてきている。

 

「ゴーサイン」がちゃんと出るまでは、お互い絶対譲れないから、改革派も荒っぽくやってしまう部分が出ていたんですよ。

 

でもちゃんと「前に進むぞ」と決めることで、「あたらしい着地点」へと”より丁寧に動いていく”ことが可能になるんですね。

 

大事なことやからもう一回言うとくでぇ↓

ちゃんと「前に進むぞ」と決めることで、「あたらしい着地点」へと”より丁寧に動いていく”ことが可能になる

 

で、一歩ずつ「あたらしい均衡点」が歴史的に近づいてきてる結果、5年前は「市場原理主義的なこと言う人」の方がちょっとイタイ感じだったんですが、最近は「アンチ市場」なことを原理主義的に言う人がだんだん「イタイ人」になって来ているところはあると思います。

 

金持ち老人の道楽としての「清貧思想の押し付け」とかね。あるいは「じゃあ物凄い巨大な土建国家にするってこと?」っていうようなビジョンとか。

 

アンチ市場主義者の”懸念自体”は正当なものなんですが、だからといってその先にある「未来」に希望はないですからね。だから「前に進む決断」が公的になされるまでは、永遠に「改革派が過激にならざるを得ない構造」があるんですよ。

 

だからこそ、とりあえず「前に進むこと」だけは決めた方がいいんですよね。

 

こういう全体的な世界の流れの中での「今後の日本が取るべきユニークな方向性」という話については、ぜひ私の近著↓

amzn.to

 をお読みいただければと思います。

 

 

3・大阪人特有の「ダメ人間化スパイラル」脱却を!

で、もうちょっと大きな話をするとですね。

 

私の母親は、都構想賛成派らしいです(ただし神戸市民なので投票権はない)。その理由は、

だって、”都”が東京だけのモンやなんてずるいやん!

 

 だそうで(笑)

 

そんな理由かよ!って感じですけど、でもこれ結構大事なことやと思います。

 

と、言うのも前述したように私は大阪に住んで大阪の会社で働いて大阪の色んな会社と仕事をして、さらには大阪の下町の路地の奥の奥まで訪問販売で中に入ってって色んな人と直に接してきた経験から言うんですが、今の大阪人の負け犬根性というか「ダメ人間化スパイラル」はほんと良くない感じなんですよ。

 

でも、昔はそうじゃなかったはずなんですよね。今の「大阪イメージ」と、本来の「大阪イメージ」は随分違ってきてしまっている。

 

「誇りある実質主義の商都大阪人」として頑張ろうぜ!じゃなくて、どんどん「競い合ってダメ人間ぶることで自分たち自身をも傷つける競争」みたいになってしまってるんですよ。

 

ブランド品を買った時に、大阪の人間は「いかに安く買ったかを自慢しあう」という話がありますが、そんな感じで大阪には特有の「どれだけ正直に生きてるか競争」をする巨大な磁場が働いてるんですよね。

 

で、それは「嘘くさい虚飾を廃する商都大阪の誇り」みたいなものだったはずで、良い方向に回り始めたら「次はこんなんやったろ!どや!東京には敗けへんでぇ!」的な好循環になるはずのものなんですよ。

 

でもね、これが今は、「真剣に働いてなんかやろうとするより、公務員にでもなってオイシイ位置占めといたら何もせんでもこんだけ貰えんねんでぇ!なんか頑張ってるアイツとかアホちゃうか?」的な方向での大競争みたいな雰囲気になってるんですよね。

 

以下の絵みたいな感じで(クリックで拡大します)、この「ダメ人間スパイラル」を「商都大阪のプライドスパイラル」に転換しないと、日本第二の都市が国の補助なしでは財政的にやっていけないというような状況は絶対いつまでも続けられないですからね。

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 「既得権益をぶっ壊せ」的な定形表現は私はあまり好きじゃないんですが、しかし大阪に関して言うと、今は「マットウな商売」の方向じゃなくて「いかにウマい汁が吸えるかレース」的な方向に向いてるエネルギーが強すぎるので、どこかでショック療法が必要だと思います。

 

都構想に否定的な人はいわゆる「インテリで良識的」な人だと思うんですが、世の中にはそういう「インテリで良識的」な人の想像もできないほど自分のことしか考えてない人がいますからね。そういうモラルハザードを超える方向での回転は、どっかで起こしていかないといけないんですよ。そのことは、「維新の都構想」は反対する・・・というあなたも、「あなたのバージョンの理想」を考えるにあたって、ぜひ一度忘れないでいて欲しい点なんですよね。

 

・最後に

大阪は魅力ある街です。

 

このゴールデンウィークに妻と大阪旅行に行ったんですが、大阪の街(特にミナミ)に降り立つと、自分の中の関西弁回路がやたら活性化して、お好み焼き屋さんに並んでる時に隣のオッサンと雑談したり、会計してる時に店員のお姉さんと雑談したり・・・って自然になってしまうぐらいの「場の力」があります。

 

あべのハルカス内のホテルに泊まったんですが、日本一の巨大ビルからちょっと歩いたら釜ヶ崎のドヤ街や「ザ・大阪庶民の街」である新世界という状況が凄く新鮮でした。

 

実際、「新世界」なんて昔はちょっと私のような神戸出身のオシャレ関西人には訪れるのが躊躇されるような場所でしたけど、今はある程度観光地化が進んで(でも同時に昭和情緒的な町並みも消えずに残っているバランスがあって)、「ディズニーランドにいる間はオッサンでもミッキーの耳付けて歩ける」的な意味で、「新世界にいる時はみんなで昭和情緒にひたれる」的なテーマパーク的魅力が溢れていました。

 

こういう時に「ドヤ街的な世界」vs「ハルカス的なもの」的な”対立構図”に取ってしまうのは、そもそも大阪本来のもんではないはずです。

 

 むしろ、「東京ではしらへんけど、大阪じゃあそんなもんは通りまへんでぇ」的に「市場原理主義」の中から「嘘クサイ部分」だけを取り除いて、末端までシームレスに行き届かせられる力が大阪にはあると私は考えています。

 

新世界の商店街のオッサンたちも、やはりそうやって「大きな資本の流れ」の近傍にいることで、多くの人間が物好きにも「ザ・大阪のオッサン」を見たくて集まって来てくれることで「プライドを持って演じてる」良循環があるんですよね。

 

打ち捨てられたスラム一歩手前になったら「ダメ人間化競争」をやって自分で自分を傷つけてたオッサンたちが、ある程度「資本の論理」がちゃんと作用することで近所にあっちこっちからの観光客が来るようになって、商店街を自転車で通り抜ける時に、「ちりんちりーん、通るでぇ」と”口で”言いながら優雅に通り抜けて見せるダンディズムを発揮する方向に「競争心」を持てるような流れを生み出せるかどうか。

 

めちゃ極端な「市場原理主義」vs「アンチ市場主義」に分断されがちな世界において、実際に「市場主義」を「生身のレベル」でちゃんと受け止めて再生していくような力を、大阪は持っているはずです。

 

別の視点から言うと、東京は大きいですし、首都としての役割から常に日本全体との関係における無数の調整過程が必要なので、不自由さも当然ある。

 

一方で、大阪はそういう「国全体との調整過程」は必要ないし、しかしそこそこの国ぐらいの規模感がある(関西全体で連携すれば韓国ぐらいの規模感はある)わけですから、「いちいち東京にお伺いを立てないで済む身軽さゆえの独自施策」を始めるサイクルができたら、むしろ「グローバル経済の中に大阪アリ」という風になっていける可能性があります。

 

今、橋下氏的なものが「嫌い」な人・・・例えば人文系の学問関係者とか芸術関係者とかの「即物的でない」世界を重視してる人・・・から見ると、橋下氏やその周りにいる人達は「人間的に許せない」感じがするのかもしれません。

 

が、大阪・関西全体での「攻めの姿勢」が生まれて経済が好転することは、必ず人文系の学問や芸能関係にとっても最終的には良い影響がありますよ。イタリアルネッサンスメディチ家が産むわけですからね。

 

それに、「本当に絶望的な貧困」に陥りつつある人達を救う原資も、全体としての統一的な行動による発展の結果でしか、やっぱり得られないですからね。

 

世界で最初に先物取引を発明した商都の復活を、私は遠くから願っています。

 

とりあえず、都構想やってみなはれ、やらなわからしまへんでぇ。

 

 ・

 

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

 

倉本圭造

経済思想家・経営コンサルタント
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こいつの言ってること面白いぞ?と思ったあなたは、こちらの記事から私の今までの活動に触れていっていただければと思います。

 

(当記事の絵や図は、出典を明記する限りにおいて利用自由です。議論のネタにしていただければと思います)

 

21世紀の尊皇攘夷運動=安倍政権は開国政府を作れるか?

安部首相の米議会での演説を受けて(なのかどうかはわかりませんが)、自民党の若手議員有志が、「歴史修正主義的な過剰なナショナリズムを排し、保守の王道を歩む」勉強会を始めたそうです。

 

これはまあ、どんな立場の人にとっても「良いニュース」と言っていいように思います。しかし、これがどの程度広がるのか、ただ一部の議員のヒソヒソ声に終わってしまうのか、それとも1つの大きな傾向として育っていくのか?には、「よくある陣営対立」を超えた視点で物事を見る姿勢が、どんな立場の人にとっても必要なタイミングではないかと私は考えています。

 

究極的には、安倍政権の一部に「やり過ぎな右傾的要素」が含まれていることの、「現状そうならざるを得ない事情」自体を解決するように持っていかないと、いくら一部の議員が勉強会を開いても、「自民党のマジョリティ」や「その支持者」の方針は変えられないからです。

 

なぜ変えられないか?

 

そりゃあ”アイツら”がゲスで愚鈍で時代の流れについてこれない品性下劣な人種差別主義者だから?でしょうか。

 

そうではありません。彼らがそうしなくてはならない事情があるからです。

 

あなたの信条から言って彼らの行動・言動が許せないのなら、それを批判し、否定し、変えようとすることは大事なことです。しかし、同時に、「相手がそれをやらずにはいられない事情」を放置したままでいると、どこまで行っても平行線のまま余計に過激化が進むことになります。

 

「理解すると、理解される」という言葉がありますが、「彼らの事情を理解して、そしてその事情を”彼らとは違うやり方で”解決に向かおうとすること」が、この問題の根本的な解決のために必須な思考法なわけですね。

 

そのためには、安倍政権のムーブメントが、ある種の「尊王攘夷運動」のようなものだと見る姿勢が第一歩になります。

 

日本の幕末については色んな考え方があって、例えば私は大学時代山口県出身の女性と一緒に住んでいたんですが、郷里のご両親にお会いしに行った時に、あまりに「ついさっき近所の兄ちゃんが東京に行って政府を作った」ぐらいの気分で話している高齢者がいるのに驚愕しました。

 

そういう「薩長土肥的英雄譚」として幕末の歴史を読みたい人と、それに対して冷笑的な態度を取りたい人が日本の中にいることは自然なことだと思いますし、例えば「革命側」が色々と無茶をしたことを「歴史修正主義」的に塗りつぶしてしまうことはよくありません。

 

しかし一方で、じゃあ「そういう無茶をしてまでも成し遂げられたこと」というのが一方であった時に、その功績も全部否定されてしまうと、それはそれで「嫌だ」というかそもそも「アンフェアだ、おかしい」と思う人も、また当然多くいるだろうと思います。

 

じゃあ、何らかの統一的リーダーシップを誰も取らなくて、あのまま西欧列強に分割統治されて、当時の清国が陥ったような悲劇になっても良かったのか?というと、それはやっぱねえ・・・ということになるでしょう。

 

そのプロセスの初期には、「尊王攘夷運動」といって、もうガイジン見たら全員斬り殺せ!というレベルの運動だってあったわけですし、まあそれはそれは野蛮だし、今から見るとムチャクチャですよね。

 

もっと理性的で良心的な運動によって統一がなされたら良かったのに・・・というのはまあ、確かに理想論としてはそうです。

 

しかしね、この文章にネットで出会ってちゃんと読んでるあなたのようなインテリと、私が密室で二人で話し合って「そうだね、そういう側面もあるね」と言うレベルで同意できるかどうか?という話じゃないわけですよねこれは。

 

今まさに侵略されて分割されてしまうかもしれない!という危機状況の中で、曲がりなりにも統一的に行動を起こせる政府を作らなくちゃという「免疫力」を発揮するためには、多少アレルギー反応的に大げさであっても、強力な熱量を発するようなムーブメントが「必要」だったところはあるでしょう。

 

要するにこの問題は、

 

「何かみんなのためになること」を必死にやった人が巻き添えに被害者を出してしまった時に、その対象をどう評価するか?

 

という問題なわけです。

 

ある人は、その「巻き添えの被害者」のことを重く見るだろう。ある人は、「何かみんなのためになること」を必死にやったことの価値を重視するだろう。

 

それぞれの価値観の違いを尊重することは大事なんですが、でもこれ、「そのまま」理解できりゃ一番良いですよね。


・「功績を讃えたい」人だって、功績を否定されないんであれば、過ちも認められる。
・「過ちを正したい」人だって、それを否定されないんであれば、功績があったことは認められる。

 

「ヒロイックな功績」にフルフルと感動したい人だって、その「功績」を否定されないのであれば、「過ち」をも、「そうなってしまったことは力不足だった。もっと向上しなければ」という方向にプライドを保ったまま理解できる。

 

「過ちを正したい人」だって、過ちを指摘するだけでは片手落ちだということは普通はわかってることが多いでしょうから、「過ちを正す論理」が毀損されないのであれば、功績を認めるにやぶさかではない・・・ということになるでしょう。

 

歴史修正主義の問題は、「彼らが大事にしたいと思っているもの」があって、それをキチンと表現する「欧米的価値観で政治的に正しい論理」が用意出来ない時に、それでも彼らが毎日安定的に生きていくためのプライドの源泉を保つためのアレルギー反応として生まれているわけです。

 

彼らはウソをつきたいわけでもないし、無意味に他の国の人を貶めたいわけでもないし、ただ彼らの生活を支えるプライドの源泉を守りたいだけなわけです。

 

しかし、その「生活の源泉」に対して今の「欧米的価値観の中で政治的に正しい論理」のあり方が今一歩届いていない部分があるので、「彼らなりの表現形式」でそれを表出せざるを得なくなっているわけですね。

 

ここで大事なのは、「だから大目に見ろ」という話ではないということです。「このオッサンは普段の生活で疲れてるかもしれないが、だからといって痴漢は許せません」というような「裁き」はちゃんとやるということです。

 

一方で、社会の構造的にそこに「シワ寄せ」が来ている現状は、「意識高い系の論理の延長」として実現するぞ、という、そういう「包括していく態度」が必要なんですよね。

 

 

イスラム国でのテロ事件の時に、そりゃテロリストの生まれた境遇には同情されるべきところはあるが、だからといって「テロを許す」ことはやっぱり良くないですよね。

 

そこをナアナアにしはじめると、実際問題としては、「殴っても殴り返してこないでお金払ってくれる国」扱いされてトコトン殴られる・・・という人間社会の現実はどうしてもあるからです。

 

一方で、そこにテロリズムが生まれてしまうメカニズム全体を、なんとかしていこう・・・という動きは真剣になされるべきですし、それは「テロするヤツを許さない」態度と決して矛盾しません。というか、両輪でやっていかないと決して解決しない問題ですよね。

 

日本における「右傾化勢力」は、もしあなたが逆側の立場にいて遠目に見ているだけだと「一枚岩」に見えるかもしれませんが、決してそうではありません。というか、冒頭の自民党の勉強会のように、「ちょっとあいつらとは一緒にされたくねえ」という危機感を持っている層も確実にいるでしょう。

 

「右vs左」の対立から、「良識派vsムチャクチャな過激派」ぐらいの「陣営の組み直し」が起きれば、「尊王攘夷運動から始まってそれなりに良識的な開国政府を作った」ような流れを引き寄せることができます。

 

その時に大事なことは、「尊王攘夷運動」側にいる人が「どうしても否定されたくないもの」は何なのか?を本質レベルで理解することです。そしてそれを「彼らとは違う回路」で解決してやることです。

 

 

では最後に、「”尊王攘夷運動”がどうして必要とされているのか」について、2つの記事へのリンクをしておきます。

 

1つは、「何が正義なのか」というような大上段な議論についてです。

 

そもそも、この問題は、まず欧米人がその前の帝国主義時代にムチャクチャやり始めたという問題がある。それに対抗するために日本は相当に「無理」をした部分があって、その「無理」の結果守られた価値だって当然ある。もちろん、その「無理」の延長で色んな「被害」も出た。

 

そこの「功績」は完全否定された上で「巻き添えになった被害」の責任は100%取れと言われても納得できないよね、という不公平感があるわけですよね。で、言論の自由が保たれている空間で、「そもそもアンフェアなこと」を国論として完全に安定的に採用するなどというのはそもそも不可能です。

 

この問題は、「3割のそもそもの欧米の罪と、残り7割の日本の罪」を、全部日本に載せているから紛糾するわけです。「3割の欧米側の罪」の裏返しとしての日本の(あるいは”非欧米国の”と一般化してもいい)「功績」の部分をちゃんとフェアに理解できるようになれば、「残り7割の罪」を否定したいという気持ち自体が根治していくわけですね。

 

そして、日中韓の間の相互理解も、この「3割の欧米の罪」の部分に対する違和感は実はあらゆる東アジア人の(特に多くの男)の中には渦巻いているので、その「3割」の部分での共感関係を基調としていって、それぞれの国の共同体の「免疫力」を危機にさらさない形に持っていけるならば、「悲しきAsian boysの共感関係」を直につないで行くことによって相互理解が確立するし、同時に日本の右翼さんも「あったことまでなかったことにする」必要性も感じなくなるでしょう。(感情的問題が先に解決すれば、”なかったことまであったことにする”議論もいずれ落ち着いていくでしょう)

 

そういう方向性についてまとめたのが、「日中韓が心の底から仲良くなる方法」という記事です。

 

 

もう1つの「尊王攘夷運動の必要性」の話は、実際に日本の組織のユニークネスとその結果としての「優秀性」を保つには、「単純なグローバリズムの延長」だけでそれ以外を焼き払ってしまうような時代の中では何らかの「免疫メカニズム」が必要だという実質的な事情です。

 

もし「免疫力」が崩壊して、なんか日本が「一部の超絶金持ちと、それ以外のほんと果てしない絶望的スラム街」みたいな世界になったら、そりゃ良くないですよね。

 

こうやって並べてみると、”そうならないため”なら、多少の歴史修正主義発言の罪ぐらい軽いだろう・・・という「物事の軽重の感覚」の人も多くいると思います。

 

で、何度も言いますが、「だからといって何を言っても許されるべき」という話ではないということです。

 

「ダメなものはダメ」という断固とした姿勢と、「その姿勢が取りこぼしている問題への目配り」を両輪としてやらないと解決するはずないよね、という話なわけですね。

 

ちょっとだけいつもやってる自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

 

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

で、その経験から言うんですが、「普通の国ならスラム街になってもオカシクない」ような領域にいる「職場」でも、日本の場合はちょっと変な言い方ですが「職業意識」はめちゃ高いんですよ。

 

「そこにあるもの」と、そこから広がって震災時にも崩壊しない治安とか、日本におけるトヨタや精密機械産業の優秀性といった世界は「地続き」につながっている。「それを失って」しまったらもうそれは日本とは言えないような「何か」がそこにある。

 

で、恵まれた育ちの人から見ると、そういう「日本人のユニークネス」的なものは放っておいても未来永劫タダで手に入ると思ってしまいがちなんですが、そんなことはないですからね!

 

むしろ社会の片隅で生きている色んな日本人の地道な「今の時代決してかえりみられない貢献」が積み重なってギリギリ紙一重で維持している何かがある。のに、「欧米由来の論理」だけではそこは攻撃され続け、誰も擁護してくれないという孤立無援の状態におかれている。

 

だからこそ、「欧米由来のグローバルシステム」の延長として「日本の強み」を位置づける取り組みが必要なんですよね。

 

「欧米的論理で日本の現場的なものを絨毯爆撃的に焼き払ってしまいつつ全然その自覚がなく正義の使者だと思っている」というようなものでもなく、だからといって「日本だけで通用する内輪の論理」に引きこもって全てを拒否し、国際的に受け入れづらい言説をまき散らすだけに終わってしまうのでもなくね。

 

その動きが活発になることで、徐々に「尊王攘夷運動」は不要となってあたらしい「開国政府」ができあがる情勢が生まれてくるでしょう。

 

そういう現実的な方策については、前回大塚家具の騒動について書いた記事、

 

keizokuramoto.hatenablog.com

をお読みいただければと思います。(そこそこ好評で、大塚久美子社長ご本人にもツイッターでお気に入りに登録していただきました)

 

最後に、この記事で言いたかった内容を一枚絵にまとめるとこうなります。(クリックで拡大します)

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このプロセスは、結果として「欧米社会的システム」と「それ以外」が、イスラム国のような部分で大きな問題を巻き起こしている時に、「人類最先端のチャレンジ」となるでしょう。

 

欧米社会が生み出したものの不完全性をちゃんと認めつつ、しかしそれをイスラム国みたいに全否定しないでちゃんと引き受けて、「現地現物的事情」をうまく吸い上げるように持っていってやる。

 

そのことで、「完全じゃないのはわかってるけどもうこのまま押し出すしかない欧米社会」にも、それに虐げられて暴力的手段に出るしかない状況に押し込まれている世界の人々にも、どちらにも「貢献」となる日本ならではの道が開けるというわけですね。

 

そう考えると、あなたも私も、面白い時代に日本に生まれて来たものです。そういう「最先端のチャレンジ」、一歩ずつモノにしていきましょうね!

 

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

 

倉本圭造

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こいつの言ってること面白いぞ?と思ったあなたは、こちらの記事から私の今までの活動に触れていっていただければと思います。

 

(当記事の絵や図は、出典を明記する限りにおいて利用自由です。議論のネタにしていただければと思います)

 

大塚家具問題は『ナウシカ方式』で解決しよう!

以下の記事は、先日古いブログにアップしたものですが、好評だったので「はてなブログ」移行後も引っ越しさせたものです。(大塚久美子社長ご本人にもツイッターでお気に入りに登録していただきました。)

 

 

大塚家具の話をしたいと思っています。いまさら?と言うなかれ。

 

あれだけ話題になってもあっという間に流れ去ってしまう忙しい世の中なので、「いまさら?」感は確かにあります。(すぐにブログを書こうと思っていたんですが、ウィークディは何かと忙しく、週末には家族旅行で離島に行ったり結婚記念日にクルーズ船に乗ったりと、前から決まっていた予定が詰まっていて書けなかったんですよ。)

 

しかしこれだけたってから書いて良かったと言えることがひとつあります。

 

それは時間があいて冷静になることで、父の勝久会長と娘の久美子社長の「2つの相容れない全く違う世界観」だと思われていたものが、実はそれほど違うものじゃないように見えるようになったことです。

 

というのも18日から大塚家具の「一連の騒動」への「感謝セール」があったんですよ。行って来ました。ニュースにもなってましたが、かなりのお客さんが来ていて、私も始めて大塚家具に入ったんですが、「これはうまく行けば化けるかもしれないな」と思いました。

 

これから久美子社長と「勝久会長派の抵抗勢力」さんが長所を出し合えるように持っていければ、日本の家具市場の流れに一石を投じる存在になるかもしれないとすら思いました。

 

それについて書きます。タイトルに”大塚家具問題は『ナウシカ』方式で解決しよう!”と書いていますが、キモはこの絵です。

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はい、全国のジブリファンの皆さん、この絵に「セリフ」をアテてください。

そうですね。

 

ほらね 怖くない。ねっ? おびえていただけなんだよね?

 

 

 

目次は以下の通りです。

1●久美子社長の方針は誤解されている。(イケア&ニトリ路線ではない)
2●家具市場の大きな変化と大塚家具の新戦略との関係
3●新戦略の可能性が本当に解放されるには、「ナウシカ的繋がり」が必要。
4●日本社会は改革への分水嶺を超えられるか?

 


1●久美子社長の方針は誤解されている。(イケア&ニトリ路線ではない)

 

「父娘対決」がヒートアップしていた時は、それを眺めている外野も「どっちかに肩入れ」して見がちでした。

 

・父の勝久会長の路線は時代遅れ。もうそんな時代じゃない。
・娘の久美子社長の路線は結局ニトリやイケアに勝てない。

 

俺あんま興味ないし、という人もいるにはいましたが、かなり広範囲の日本人が「どっち派」のようなポジションを取って見ていたように思います。

 

ちなみに、日経ビジネスオンラインの両者それぞれへのインタビューでは、久美子社長の記事の方に勝久会長氏の10倍弱の「いいね!」がついていました。フェイスブック的価値観からすると断然久美子社長派が当然という雰囲気で。

 

近年まれに見る意識高い系を自認するワタクシも、まあ賛成反対というより、時代の流れ的に久美子社長の圧勝で終わるんだろうな、と最初は思っていたんですが、その後ある機会に2ちゃんねるの関連スレッドを見るとかなり父の勝久会長派が多い印象で、かつ株主総会直前には「勝久会長有利」という観測ニュースすら流れていました。

 

結局久美子社長の辛勝だったわけですが、真剣にこのニュースをフォローして、久美子社長側が作った中期経営計画(コンサル風のプレゼン資料)まで読んでる人以外は、久美子社長は会員制を辞めてニトリやイケアのような安売り路線を目指してるんだろうと思っている人が多かったように思います。

 

もしそういう「ニトリ&イケア的安売り路線」を目指しているのであれば、「それだったら別ブランドでやればいいじゃん」とか、「大塚家具辞めて自分で別の店やればいいじゃん」、というよくある反対意見も意味を持ってきます。

 

でも、実はそうじゃないんですよね。さっきリンクした中期経営計画の資料はなかなか面白かったです。

 

ニトリやイケアのような安売りを目指す」のではなくて、

・会員制を改めて気軽に入店してもらえるようにする
めっっちゃ高いものしか置いてないイメージを改める
中価格帯から高価格帯の幅広い品揃えをアピールし、単品の買い替え需要を取り込めるようにしていく

 

方針だそうです。全体的に「大津家具の元々持っていた良さを変えることなく、より広い範囲の人に見てもらえるようにする」というような路線だということがわかる。

 

この8ページとか良かったな。(クリックで拡大します)

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2●家具市場の大きな変化と大塚家具の新戦略との関係

 

だいたい、男は(特に日本人の男は)伝統的に家具に興味ない人が多かったような気がします。いや別にこれはディスってるのではなくて、観察的事実としてね。

 

あるコンサル会社に所属していた時に、10年ほど前ですが中国に視察旅行に行ったことがあるんですが、そこで中国の超巨大家具店に行きました。

 

中国は家は真っさらなガワだけの状態で売っていて買ったら内装から家具から一新するのが彼らの風習らしく、だから日本よりも「家具」に使うお金が大きい印象なんですよね。

 

で、中国のことですから超巨大なスペースの中に、中国伝統式やヨーロッパ風、モダン風、ヴィンテージ風・・・とありとあらゆる世界のスタイルの家具が陳列されていて、彼の国の人々の家具への情熱をヒシヒシと感じる時間だったんですが、一緒に行った男の社員たちの手持ち無沙汰感といったらなかったです。

 

これはまあ当時の私も含めてなんですが、「これをどう楽しんでいいかわからない」ような感じで。でも概ね、一緒に行った女性社員の皆さんは目を輝かせて色々見てることが多くて、「へえ、こういう楽しみ方の世界があるんだなあ」とボンヤリ思ったことを思っています。

 

シリコンバレーで働いているある知人が言っていたのですが、彼女の現地での友人で何かのIPOで億万長者になった男の家に行ったら、内装の何もないでかい部屋の真ん中にベッド用のマットレスだけがボンと置いてあって、そこらじゅうにビールの空き缶と宅配ピザの包装が溢れていて、ほとんど家具らしい家具はなく、でもガレージには超スーパーカーやらスノーモービルだったかそういう”マシン”がズラズラ並んでいたそうで、「ギーク(技術オタク)の男だけに世界を任せるとこうなるという見本」だと感じたとか。

 

そこまで極端でなくても、「良い家具を選んで配置して暮らす楽しみ」というのはある種の人生に対する余裕が(金銭的なものも含めてですがそれだけじゃなくて)必要で、私を含めて過去20年の「デフレ時代」日本においては、大阪のミナミを闊歩するオバちゃんのような「このテーブルなんぼやと思う?安かったんやで!自慢こそが至上」みたいな価値観の中で、そういう余裕はかなり抑圧されてきた類のものかもしれません。

 

しかし、最近は色々と価値観も揺り戻しが来ていて、さっき引用した「中期経営計画の8ページ」のような市場の流れは確実にありそうです。

 

「10の資金があったら、10ギリギリまで”家のハード部分(あるいは自動車)”に投入してしまって、そこに入れる家具はあわてて最安値のものを適当に揃えてしまう」という価値観

 

 

から、

「10の資金があったら、そのうちの6〜7ぐらいまでの家を買ったり賃貸にしたり中古住宅のリノベーションにしたり(自動車も安いのにするかそもそも買わない)して、余剰資金で良い家具を買って住むのがいい」という価値観

 

への変化は確実にあります。

 

若い世代だけじゃなくて、子供が巣立ってある程度お金に余裕ができた世代も、昔は「とにかく安いものを」と思って買った家具が気に入らなくて、車の買い替えを一回辞めてでも良いソファーとかダイニングテーブルで暮らしてみたいと野心を燃やしているオバ・・・お姉さんがたが沢山いらっしゃるように思います。

 

そういう方々の思いは、「”家のガワと車”重視の価値観」から抑圧されてきた「”良い家具とダイニングテーブル”重視の価値観」による正義の復権!ぐらいの「野心」とか「怨念」とか言うレベルで燃えていることが多く、どうやってこの家庭内の分からず屋どもを懲罰してやろうかという内紛のネタにもなっていそうな感じで。

 

かくいう私も昔は家具の楽しみなんか全然わからない人間で、今住んでいる家は「ニトリ&イケア的」な家具で溢れているんですが、1年ほど前にたまたま妻と街を歩いていて、全く商業地でもない裏通りに突然超マニアックな家具屋さんを発見して休憩がてら入ってみたら「凄い面白い!」と思ったということがありました。

 

「家具ってこんなに楽しいのか」

 

的発見があったというか。時間かけて「ニトリ&イケア的な家」からリプレイスしていってやろうという野心が最近は燃えています。

 

別にこれは私がハイセンスで時代の最先端を行くイケてる男だからじゃなくて(それは否定しませんが)、やはり時代の変化とともに、10年前は「巨大家具屋にポカンとしてた男」だった自分も変わってきたんだなと思う部分があります。

 

地元の神戸にいるいわゆるマイルドヤンキーの友人も、10年ほど前に、話題はなんだったか忘れましたが

 

「それにそんだけ金払うとか俺考えられへんわ、だってエンジン付いてへんねんで!」

 

という名言を残したヤツなんですが、その後何年かしたらヴィンテージ風の超オシャレ部屋を作って純粋インドア人間になっていてその変化に驚愕したということがありました。

 

昔の男が車のスペックカタログに血道をあげていたような思いが、「ちょっと良い家具」の情熱へ変わっていく流れも確かにありそうです。たとえエンジンが付いてなくても生活が上質になる投資ってのはあるんだな!という感じ。

 

でも、大塚家具には「高い」というイメージはあっても、そういう「良い家具」を売っているイメージは全然ない、オシャレ感が全然ないというのは結構重大な問題であったように思います。

 

勝久会長の個人のイメージの問題もあるんでしょうが、この騒動がニュースになっていた頃、大塚家具にそういう「新しい価値観のオシャレな家具」イメージがあったか、っていうと全然なかったです。むしろ、「時代錯誤に大きい婚礼家具風のものが置いてある店」ぐらいの印象があった。

 

高級家具というのは、「実に権威主義的でオッサン臭くて押し付けがましいイメージ」と、「毎日の生活を大事にする舞台装置としてのイメージ」の両極端に振れてしまうところがあって、大塚家具の個人的イメージは明らかに前者でした。

 

でもね、実際に店に行ってみたら、全然そんなことないんですよ。むしろ、会員制によって守られてきた聖域の奥で、「上質ってこういう感じですよね」というような価値観が守られた売り場があって、よく教育された店員さんがいて、しかもあれだけの巨大さですから、見て回るだけで「啓蒙」される可能性がある。

 

「ケッ!おれは日本男児だよ・・・家具なんて使えりゃいいんだ。ニトリとか通販で適当に安いの買ってくりゃいいんだよ。なのに今日はカミさんにわざわざこんな店までついて来さされて・・・(トクン)・・・あれ?なんか俺、今楽しいかも・・・」

 

 

みたいになる可能性、十分あります。私がたまたま裏通りで入った小さな家具マニア店に”負けてない”空間で、しかも超巨大だから見ててほんと楽しい。

 

価格帯ごとに売り場が別れてますけど、やはり高いところのゾーンに行ったら「こりゃ凄い、なんかほんと凄いわ」って感じになります。「安い方のゾーンのもので十分」それどころか「ニトリで十分」と思ってたけど、「高い方のゾーン」に行ったら今まで気づいてなかった欲望が刺激されちゃう!ってことが十分ありえる。

 

「家具に高い金払うなんてアホ」というそもそもの価値観がだんだん揺さぶられてくるぐらいのパワーがある。

 

「めっちゃ高い家具で、重苦しい婚礼家具みたいなのを売っている会員制の店」のイメージだったら明らかに来店すらしない客が、「とりあえず繁華街に出た買い物ついでに入ってみて店内をフラフラ見て回ったら、今まで考えもしなかった楽しみに出会えてしまう店」みたいになる可能性は十分あります。

 

で、最高級品を見たら「すげーな、やっぱすげーな!」と思ったけど値札見て唖然として、でも「それに似てるダウングレード品(それでもニトリとかと比べると結構高い感じ)」をついつい買っちゃった

 

ぐらいのことは十分ありえる空間だと思います。

 

ある種のニヒリズムに繋がるような「底辺への競争」的デフレ世界を変えていくキッカケになる、そういう可能性を秘めていると言ってもいい。

 

3●新戦略の可能性が本当に解放されるには、「ナウシカ的繋がり」が必要。

 

ここまで、家具をめぐる時代の変化と大塚家具の新戦略が合致していく可能性について書いてきましたが、しかしこの「実現」というのは色々と「うまく回る」ことが必要です。

 

特に、「高齢層に特化したチラシを撒いて会員制で囲い込む」ようなハードなタイプの戦略から転換すると、「一対一対応にこうすればこうなる式」の経営ではうまく行かなくなります。

 

つまり、「理想像」と「本当の売り場」がちゃんと合致するように、日々色んなトライアンドエラーをしていくことが必要になる。意識高い系に言うと「PDCAサイクルを高速に回すこと」が、あるいは古風に言うと「カイゼンの積み上げ」が必要になってきます。

 

パワーポイントにすれば「同じ戦略」だけど、実際に実現した店舗は月とスッポンほど違うということがありうるというわけですね。

 

で、そこで重要なのが、冒頭に書いたナウシカ方式なんですよね。

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関係無いようですが、最近、ミャンマーの経済発展が凄いという話があります。長年軍事独裁政権がガッチリ鎖国していた状態から突然開国したので、「独裁政権時代に保持された社会の安定感・密度感」を「オープンなシステムとの接続」が一気に開花させて発展するということがあるんですね。

 

で、(独裁政権というものへの政治的是非はともかくとして)この流れ全体を見た時に、「閉じた世界」と「開いた世界」の「どっちかが完全に善で、どっちかが悪」という風に見るのはよくありません。

 

「閉じた世界」が持っていた共同体の安定感があるから、「外資の導入」での経済発展にある程度まで政情不安にならずに耐えられる・・・というメカニズムがあるからです。

 

今、「閉じた世界」から「開いた世界」へ飛び込んだ大塚家具の店には、瞬間最大風速的に「閉じた世界が培った密度感を、広い世界にアピールすることの驚き」の価値があります。

 

「一見さんお断り」だった京都の老舗料亭がツアー客を受け容れることにした、というような状況なので、それをうまくアピールできれば大きな潮流を生み出すことすらできるでしょう。

 

でも、これがちょっと油断して上滑りをしていくと、「ニュースヴァリューがある間の客数」では結構な反応があっても、だんだん中身自体が「安かろう悪かろう」みたいになっていく可能性は十分あります。

 

今ですら、ニュース映像で「昔の方が良かった」と言っているオジサンも見ました。そりゃ誰でも入れるようになったら店内の雰囲気はガチャガチャしてきますし、油断すると結局高いけど中身はニトリやイケアと変わらんよね・・・というようなゾーンに落ちていく可能性がある。

 

特に、久美子社長のように「コンサル&ファンド的キャリア」の人間がトップにいると、よほど気をつけていないとだんだん「現場の体力」的なものを削っていってしまうことも多い。

 

結果として、ある一個の方針をトップダウンに推し進めることで一時的に最高益を更新したりしつつ、数年後そのボスがいなくなったらガタガタになっていたという、某巨大外食チェーンのような「現場の理屈疲れ」に陥る可能性もある。

 

特に今回のような「家具の楽しみ自体をわかってもらうような店作り」をするには、「頭」だけで全部やろうとしても実現しないんですよね。

 

経営戦略の方向性には、「9割の戦略的発想と1割の単純明快な実行」がハマるタイプのものと、「1割の戦略的発想と9割の現場的蓄積」が必要なものとあります。

 

今回の大塚家具が乗り越えなくてはいけない道は後者に近いです。

 

それには、久美子社長やその周囲にいる「ファンド&コンサル型」の人材と、勝久会長と一緒にズラリと並んで会見するような「現場レベルの人間」との間のコミュニケーションをいかに円滑にするかということが鍵になってきます。

 

私は「そういう問題」をなんとかすることに取り組んできた経営コンサルタントなので、こういう時に注意すべきことを3つあげさせていただきます。

 

・「戦略」を考えて意図決定する時に現場の意見を聞きすぎないこと
・久美子社長の周囲と「現場」との間に「青クサくて具体的でないフワッとした会話」をする時間を意識して多く取ること
・「浸透させた大方針」に対応する「現場発の提案」を大げさなぐらい積極的に取り上げ、試し、効果があればヨコ展開しまくること

 

 

これに対してよくある失敗は、


・「戦略」を考える段階で「現場」レベルの人の意見を聞きすぎて混乱し、よくわからない折衷案みたいなものになってしまうこと
・「現場」レベルの人に妙に具体的な議論を吹っかけて対立が激化し、結果として久美子社長の周囲と現場レベルの社員との間のコミュニケーションが断絶してシラケムードになってしまうこと
・外部の「うまく行ってる事例」のプロを連れてきて(そのこと自体は否定しませんが)、問答無用に現場のプライドを押しのけて細部までその連れてきたプロの言うとおりにさせること

です。

 

ファンド・コンサル」的なキャリアの人間は、「具体的な解決策につながらない話」をするのがとても苦手です。「コンサルとして優秀になると奥さんの雑談をもロジカルに整理して嫌がられる」とかいう業界ジョークがあるぐらいなので、ましてや仕事の場で「青クサくてふわっとした具体性のない話」をするという文化がない。

 

でも、「現場レベル」の人間からすると「コミュニケーションはコミュニケーションすること自体が目的で、内容は二の次」ということがあります。

 

「方向性」は明確に示して欲しいが、あとは「接触時間」をちゃんと取っていればその具体化のための取り組みに魂はだんだん篭っていくわけですね。そしてその「話のついで」に出てくる現場からの提案についてはバンバン取り上げてやればいい。

 

多くの「現場的感性」の人間にとっては、戦略というのは「戦略の内容」があるんではなくて、「久美子さんが言っていること」という「感覚」だけがあるんですよ。

 

だから、パワポの資料を見ても反応はないが、「久美子社長の言ってること、なんとなくわかってきたわ」と思う人間が増えると、一個一個の打ち手への反応力が劇的に変わってきたりもする。

 

そこで出てきた提案が、ちゃんと「取り上げられてどんどん実行」されたら、現場にとってこんな面白いことはありません。お家騒動のしこりなんて笑い話として吹き飛ぶでしょう。「こっちの方が断然いいじゃん」という「ウソじゃない感覚」が満ちてくる。

 

ニュースヴァリューがあって客足が途絶えていない時期にそういうサイクルが回り始めたら、「会員制時代に培った蓄積」と「オープンなシステムとの接続」の両輪で、大塚家具は「化ける」可能性もあります。

 

そういう手順を意識して踏まないと、「戦略1割に現場的蓄積9割」で実現する「良い店」にはなりません。

 

その時に大事な気分が、何度も書いてきた「ナウシカ方式」なんですよね。

 

「反対してきた人たち」には「守りたいもの」があって、ただ「怖がっていた」だけなんだと理解して敬意を払うことができるかどうか。

 

「敬意」が払われているのを感じれば、そりゃ時代に合致したオープンな流れの中で思う存分活躍したくない人なんていませんからね。

 

私のクライアントにも「同族企業の継承者」がいるんですが、「現場と理屈のバランス」を取りながら新しいビジョンを実現していく時に、実は「同族企業」であることは非常に有利であることが多いです。

 

「現場の強み」がある企業で出世する人間は「あまりに現場的」すぎることが多いので、「同族だから」という理由で「コンサル&ファンド気質」のインテリ人間が落下傘的にトップに座ると、うまく行けば「現場と理屈の最適ミックス」になりえる、本当の意味での「異質との結合」が可能となる組み合わせが実現する可能性があるからです。

 

そして、「外部から全然関係なかったファンド&コンサル型人材が入ってきた時」にありがちな、生え抜きの人間に一切スキを見せられないから過剰に理論武装して現場をなぎ倒してしまう・・・ようなことを、「同族の跡取り」はしなくて済むという最大の利点があります。

 

今までの日本では「同族会社」であるというだけで否定的に見る、ある意味で”サヨク的”論調も多かったですが、「上場企業としての適度なガバナンス」と、「同族企業ならではの強み」を両方発揮できる形が実現していけばいいですね。

 

 

●4日本社会は改革への分水嶺を超えられるか?

 

大塚家具という一企業の問題がこれだけ多くの人の興味をひいたのは、これが「多くの日本人の今」に共通する問題だからですよね。

 

日常的に「こういう対立」は無数に起きていて、自分は「久美子社長派」なのか「勝久会長派なのか」を問われ続けているところがある。

 

でも

大事なのは、「勝久会長的な価値観で守ってきたものを、久美子社長的な価値観の中でちゃんと育てていくこと」

ですよね?それができたら「改革派」と「抵抗勢力」みたいな話は必要なくなる。

 

小さな揺り戻しはあろうとも、今後日本社会は、「久美子社長側にリード権を渡していきつつ、勝久会長的な価値観で守られた価値を壊さずに伸ばしていく」チャレンジをしていくことになります。

 

こういうことは、10年前には、あるいはほんの5年前ですら難しかったことだと私は感じています。

 

なぜかというと、以前は「どっちの派閥ももっと意固地」だったからです。

 

「久美子社長側」にいるようなファンド&コンサル価値観の人間は、もうとにかくありとあらゆる「日本的」なものを「焼き払え!(巨神兵に命じるクシャナのセリフ)」的な感じで生きていました。

 

今は多少「良識的」になった経済評論家さんたちも、ほんの5年前まではもっと無理やりな市場原理主義の極論をいかに言えるか競争みたいな感じでしたし、コンサル業界の中身も、10年前は「いかに日本企業がグローバルベストプラクティスから遅れているか」的なことを言えば言うほど儲かるみたいな感じでした。

 

でも最近そういうのは「出羽守(欧米”では”こうなのに日本はそうなってないからダメだ、日本人はカスだという話ばかりする人)」とか揶揄されるぐらいには成熟してきています。

 

「アメリカがこういう点で優れているのはわかった。じゃあ日本の良さを失わずにその価値を取り入れるにはどうしたらいいか」という中立的でマットウな問いが共有されるようになってきている。

 

ちょっと直感に反するようですが、そういう「マットウな問い」が成熟してくると、「日本の抵抗勢力サン」たちに本当の意味で「退場していただく」ことが可能になるんですよね。

 

日本はアメリカみたいに「ほんの数%のトップがめちゃ活躍する環境を整えるためにスラム街はほんど絶望的なスラム街になってもいいという決断をする」ようなことはできない国なんですよね。

 

だから、「改革派」が無理筋な出羽守しかいないと、「バカ殿様」が大量にノサバる結果になったとしても「あらゆる改革に反対して何もしないためならなんでもする」世界になる必要があったとも言える。

 

でもね、バカ殿様(勝久会長がそうだと言いたいわけではないのですが一般論として)のお守りをするのって、多くの日本人だってやりたくてやってるわけじゃないわけですからね。ちゃんと「自分たちの本当の良さ」が消えない形なら、バカ殿様よりクールな女社長にリードしてもらいたいとみんな思ってるんですよ。

 

記者会見に狩り出されて一列に並ばされたりするのは嫌だけど、コンサル&ファンド文化の奴らがあまりに現場のことわかってない状態だったらそうせざるを得ないから仕方なくやってる・・・的な人間が大勢なので。

 

あと何歩か前に進んで、「成功事例」がちゃんと出てくれば、ちゃんとグローバルなフルオープンのシステムに無矛盾に接続していきながら、自分たちのユニークネスを嘘くさい日本礼賛論や歴史修正主義でない形で提示していこうという流れがちゃんと立ち上がってくるでしょう。

 

そういう流れに、一歩ずつ動いていきたいですね。

 

そしてこういう時代の変化は、ここ数年の「アメリカ一極支配の退潮」の結果として生まれてきているんですよね。

 

数年前までの「アメリカが無敵だった時代」には決してできなかった改革が、「今」ならできる可能性がある。幸薄い対立を超える方向性を日本が持てる可能性がある。

 

そういう方向の、今回の記事をより広い見方から肉付けした話については、私の近著「アメリカの時代の終焉に生まれ変わる日本」をお読みいただければと思います。

 

2005年5月5日
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
公式ウェブサイト
ツイッター

この「経営」レベルの話を今度は「政治・経済」レベルの話に展開した次の記事もお楽しみください。

keizokuramoto.hatenablog.com

 

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はてなブログ読者が倉本圭造の本を読むならどれからか?

はじめまして、倉本圭造です。普段は経営コンサルタントとしての仕事と、あとは本を書いたり、「日本で働いている個人」に直接文通して何らかの変革的行動を促していく「経済思想家」を名乗る仕事をやってます。

 

最近までグーグルの「ブロガー」を使ってブログを書いていたんですが、このたびはてなブログに引っ越しをすることにしました。

 

最近は色々と忙しくなってしまって、月に2本もブログを書ければ良い方で、そうなると「ブロガー」では頑張って書いてもあんまり読んでもらえない悲しさもあり。もちろんツイッターや、あるいは特にフェイスブック経由で地道ぃぃぃな広がりはあるんですが、もうちょっと読んで欲しいよなーという色気もありまして。

 

はてなブログ」は、ちゃんと良いもの書けば読んでもらえる仕組みが整っているよ、という話を聞きつけまして、ゴールデンウィークを利用して引っ越しをしてみた次第です。

 

まあ、それがどれほどのものかはよくわかりませんが、確かに「はてなブログ」で書かれているブロガーさんの文章で、「いいな」と思うものはネット無精の私でもたまに流れてきて読む機会があることが多い体感がありますので、逆の立場でもそうなってくれたらいいなと思っております。

 

はてなブログに移動してもはてなブロガーさんばかりが読んでくれるわけではないでしょうが、「はてな界隈」という言葉がたまに見られるように、特有の傾向がある読者との「出会い」があると考えられるので、自己紹介もかねて、もし私のブログを経由して私がやっていることに興味を持たれた時に、どの本から入るといいのか?について、書いてみたいと思います。(2015年5月段階で3冊出してます)

 

 

過去にはてなブログで書かれた記事が流れ流れて私も読むことになった場合、2つの大きな「スタイル」があったように思います。

 

一つは、特に田舎出身だったり、”社会階層的にエリートではない出自”だったり、あるいは東京のいいとこ出身なんだけど人生のどこかで「挫折」を抱えた人が、そこから色々頑張って東京などの都会でそこそこの暮らしを手に入れた時に、来し方行く末を概観して、「今いる自分の身の回りの世界」と「自分が育ってきた過程で見てきた世界」との間の、あまりに相互理解不可能な「分断」について嘆いたり、違和感を表明したりしながら、その中で自分や社会としてできることを考えるという話。

 

ある知人がこういうはてなブログの「ホットエントリーの型」を「車輪の下型エントリーヘルマン・ヘッセの小説から)」と呼んでいましたが、なんとなくバズって、今まで知らなかった人の記事をはてなブログで読む時の「一つのパターン」は、こういうものであるという実感、ありますよね?

 

そしてもう一つのパターンは、原発とか沖縄の基地問題とか日米同盟とかの大きな話題や、あるいは日常における「知的な個人主義者にとって我慢がならない日本の集団主義的傾向」といったものへの、「単純な右or左ではないポリティカルな論戦」をしかけるというタイプも、たまにはてなブログから広がって私も読む機会がありました。

 

こういうものでも、もうある種の様式になってしまったような「右と左論争」ではない形での、バカバカしい単純化には抗いつつも、やはりポリティカルな論戦というもの自体の価値というか、そこから生まれるものに何か信頼を置きたいという気持ちが、はてなブログ”界隈”にはひとつの特徴としてあるように思います。(しかし、類型化されてないオリジナルな議論であればあるほど、”徒党を組んで同じことを叫ぶ”型のムーブメントに比べて小さくなるので、普段は見えないんですが、たまにはてなブログから出てくるのが一目に触れるという感じですね。)

 

 

これら、「車輪の下型」にしろ、「単純な右or左ではないポリティカルな論戦」にしろ、そこに放出されている人々の思いの強さとそこに集まる共感の分厚さとは裏腹に、しかしそのエントリがバズってもそこから先にどこにも行けない、ただ「日々の社会のありようによって押しつぶされるだけになっている無力感」と、それゆえに参加者が多少狭量な振る舞いをしてしまいがちな事情などがあって、「はてな界隈」という多少の揶揄も込めた印象をもって受け止められている現状があるように思います。

 

正直言うと私も「はてな民は怖い」という印象がなかったといえばウソになるわけですが、これから自分も参加するにあたって、この「車輪の下型」や「ポリティカルな論戦型」の方向で噴出しているエネルギーを、どうにか「社会の日常性」の中で押しつぶしてしまうだけにならないような、そういう思いを表出したらしただけ良い希望につながっていくような方向に繋げていけたらいいなと思っております。

 

と、言うのも、現代日本の色んな問題は、「アレ!じゃなければコッチ!」というような、つまり「市場経済、でなければ共産主義」だとか、右でなければ左だとか、そういう二者択一的な議論で進むことができない袋小路にいるからなんですよね。

 

そういう二者択一の議論だけをしていると、時代背景とか歴史の流れ的に、「共産主義」だったり「左」だったりの中でのある程度現実的な選択肢というのが限られている現状の中では、「共産主義になるわけにいかないんだから」「左じゃあ限界あるから」という理由だけで「どこまでも市場主義」「どこまでも右」の方向に議論が、そして社会全体の意図決定がグイグイと引っ張られていくことになります。(実際そうなってますよね?)

 

ここで大事なのは、「共産主義に戻れってわけじゃないが」「いわゆる”左”ってわけじゃあないが」という留保条件から始まるちょっと面倒臭い議論の先で、実質的な解決策に繋がる道を模索していくことですよね。

 

ある程度有名な論客になってしまうと、やはり「アレじゃなければコッチ」型の議論に加わらざるを得ないところがあります。常に喧嘩し続けてないと自分のポジションが守れない。論客自体が仕事だとどうしてもそうなってしまいます。

 

しかし、はてなブログ(に限らないんですが、日本のネットの声なき声)の中には、「共産主義に戻れってわけじゃないが」「いわゆる”左”ってわけじゃあないが」の部分をちゃんと扱って行きたいという願いが渦巻いていて、比較的無名な書き手の内容でもバズる可能性のあるはてなブログから出てくる共有物として、

 

・「車輪の下」型
・「単純な右or左ではないポリティカルな論戦」型

 

のエントリーが、たまに盛り上がっては虚しく消費されて忘れ去られていっている現状があるのではないでしょうか。

 

 

ともあれ、私はそういう「どっちつかずになりがちな声」を引き寄せて新しい「共有感覚」を作り出すことでしか、日本社会が色んな意味で「前に進む」ことはできないというテーマで今まで色んな仕事をしてきています。

 

「前に進む」という時に念頭においているのは、

・経済発展のための”改革”が進む
・自分たちの長所にあった経済の実現によって”貧困対策”的なものも実現する

 

という両面、そして、

 

・人種差別や歴史問題や性的マイノリティ問題や・・・といった”意識高い系のアジェンダ”が日本で無理なく理解されるようになる
・自分たちのあり方に対して自然な自信が持てる状態にする

 

という両面、これらは普段「片方だけを強力に推進する人同士」の罵り合いでお互いを傷つけあっているわけですが、日本は今、そういう「極論同士の罵り合い」を超えた「現地現物の解決策」を考えだす歴史的責任を負っているのだと私は考えています。

 

少しだけブログではいつもやっている自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

 

そのプロセスの中では、その「社会的にキレイな形」の外側にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

 

まさに、「車輪の下」的な問題意識を突き詰めて、そこから「あるべき姿」を「単純な右or左ではないポリティカルな論戦」としてまとめていく仕事をしてきたという風にまとめることもできるでしょう。

 

私の一連のブログや著作は、そういう方向で物事を考えて、「単純な罵り合い」から一歩身をひいて、何らかの「本当にオリジナルな解決」を目指す人を増やしていきたいという思いで発表されてきています。

 

 

と、言うわけで、ネットの一期一会の中で出会ったあなたが、倉本圭造の活動にご興味をお持ちいただいたとして、まずどれから読めばイイの?という話をします。

 

上記の「車輪の下」型記事に共感する自分がいる・・・というあなたは、まずデビュー作の

amzn.to

からどうぞ。

 

このページで、「はじめに」が無料で読めます。

 

「はじめに」の中で、京都府の美山の原生林の中で出会った「本当に柔らかい土」と「自然における競争の本質」についての話は、今でも読まれた多くの方に「あそこが凄く良かった」という反応を頂いております。まずは上記の「はじめに」からお読みいただければと思います。

 

また、「単純な右or左ではないポリティカルな論戦」型の記事に共感する自分がいる・・・というあなたは、二作目の

amzn.to

をどうぞ。

 

その内容についてのダイジェスト版的なものに(結果として)なった、最近のブログ記事がこちらです↓。

「そろそろ安倍政権を倒したいあなたに授ける戦略」

 

上記の初期二作は、2つともそれぞれなりに暑苦しいので、まずは「入門」的な形で倉本圭造の作品を読んでみたいという方は、最新作の

 

「アメリカの時代」の終焉に生まれ変わる日本」
をお読みください。

amzn.to

 

一番軽くて読みやすく、かつ色々と現代の状況の混乱の中での進むべき道筋についてコンパクトにまとめてあります。

 

三作はそれぞれ扱っているテーマが違っていて、相互補完的な役割を果たしていますので、どれかから入られて気に入られたら、他の作品もお読みいただければと思います。

 

また、もし本を読まれて、より深い関係で一緒にやっていきたいと思われた方は、「文通」サービスもご検討いただければと思います。

 

 

やはり時代の流れというものには逆らえないところがあり、例えば私も5−6年ほど前に本を出してデビューして、ネットでもそこそこ知られる存在になってしまっていたら、もっと「右」的な極論を言っているか、あるいは「物凄く市場原理主義的」なことを言っていないといられないような境遇に押し込まれてしまっていただろうと思っています。

 

「論客」が本業になってしまうと、「本当に自分が考えている”吉良なるもの”」からどんどん外れていってしまう危険性からは逃げられなかっただろう。

 

しかし、時代も変わってきて、「アメリカの一極支配力」も弱まってきた今だからこそできる、「極論でないが確固としたポジション」を一歩ずつ培っていくことも、可能な情勢になってきています。

 

はてな界隈」の皆さんとの出会いと、そこから生まれる力を楽しみにしています。

 

 

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2005年5月5日
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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ps
ブログのコメント欄という存在が、どうも距離感をはかりかねるところがあって私は苦手で、仲良くなりすぎると他の読者さんから見て変だし、荒れてきたらメンテナンスも大変だしということで、コメント欄は作っていません。

今の時代コメント欄がなくてもそれぞれの方のホームグラウンドで「何かに対する意見」を表明する場所は色々あるし、そこに共有されるものもあるので問題はないと思っています。

私に直接感想を伝えたい、意見を言いたい方は、ツイッターでリプライを飛ばしていただくか、私のホームページのコンタクト欄からメールをいただければと思います。